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村上華岳・山口薫・北大路魯山人展:2/何必館・京都現代美術館

承前

 村上華岳の部屋から、今度は階段でひとつ上の階へ。洋画家・山口薫(1907~68)の部屋である。

 何必館の山口薫コレクションは、質・量ともに随一。この館の所蔵品を抜きにして、山口薫の回顧展は開けないほどで、出身県の群馬県立近代美術館がそれに次ぐ。
 作品自体は全国の美術館に広く入っているものの、まとまった数となれば、この2館。山口薫に浸りたければ、京都か高崎かを目指すほかない。
 何必館は、絶筆にして、おそらく最もよく知られた作品である《おぼろ月に輪舞する子供達》(1968年)を所蔵している。展示室を入って正面・奥、いつもの定位置に、その大きな絵は掛かっていた。

 ※本展出品作は、下記リンクにある作品画像と重複している。《おぼろ月に~》の画像もこちらをご参照。

 いまわたしは「大きな絵」と書いたが、画面の多くを白、つまり膨張色の絵の具が占めていることも、そういった印象を強めているだろう。
 絵の前に立つと、その白に包まれる思いがする。
 とくに、ひときわ大きい月の白は、ベースの白以上にベタに塗り込められていて、塗りむらを探すのがむずかしい——そんなことを考えているうちに、絵の向こう側に連れて行かれてしまいそうな、あやうさ・あやしさの漂う絵である。
 月、子どもたちの円舞、3頭の馬。これらのモチーフが、なにを意味するのか。それはたしかに気になるけれど、謎かけやこじつけなどのよけいな「言葉」を、いっさい寄せつけない。そんな気配すら、まとっている。
 コレクターの梶川さんが初めてこの絵を観たとき「凍りついた」「直観的に山口さんの死を感じた」というのは、すごくよくわかる。そしてわたしのように、この絵を観ることを楽しみに、何必館を訪ねる人もたくさんいる。ふしぎな魅力をもつ作品であり、作家だ。

 同じように、ずっと見つめていたくなったのが《ある時 ある日 白い雨》(1961年)。
 本展の公式ページには画像こそ出ているものの、けっして鮮明ではなく、正直、なにがなんだかさっぱりなのだが……これが、実物はとてもすばらしいのだ(むしろ、公式ページの画像は参照しないでほしいくらい)。
 じつはこの「なにがなんだかさっぱり」というのは、やや違った意味で、実物の《ある時 ある日 白い雨》にも当てはまりそうではある。
 画面には、かたちといえそうなかたち、線といえそうな線、色といえそうな色が、どこにもないのだ。不定形な痕跡が、残されるのみ。
 それだけに……その痕跡のなかに、なにがしかの幻影を探したくなる。すると、ふと、なにかが見えてくるような気がしてくる。
 群馬県立近代美術館のコレクション展示室で観た《サラサラ粉雪ふる》(1960年)という絵が、非常によく似ている。制作年も近い。
 まだ雪が残る頃、平日で他に誰もいなかったガラッガラの室内で、「粉雪」を見つめつづけた、そして、たしかに「粉雪」が見えてきた——あの時間が、フラッシュバックする。しかしここは夏の京都……

 山口薫について検索していると、画家の牧野伊三夫さんが寄せた文章が出てきた(リンクは最後)。
 そのなかで牧野さんが述べる「具象と抽象のはざま」というのは、《ある時 ある日 白い雨》《サラサラ粉雪ふる》といった絵を思い出すとき、とてもよくうなづける表現だろう。
 本展の他の出品作でいえば、《瀧と山櫻》(1965年)は、タイトルを確認せずに画面だけ観れば、抽象画そのもの。タイトルをみたあとで、真ん中の白い縦のラインが「ああ、滝だな」となる。
 《廃船と菜の花畑》(1963年)には、タンカーらしき巨大な船舶、その手前の区画の内側に黄色い粒の集合が描かれる。けれども、廃船につく赤さびのような赤褐色が絵全体のマチエールと色あいを支配しており、まさしく「具象と抽象のはざま」といった趣。

 同じ室内に、これまた代表作で回顧展の図録表紙にも使われた《花の像》(1937年)など油彩9点、ブロンズ1点を展示。
 さらに、エレベーターで昇った最上階・5階の小部屋にも、山口薫の素描7点が展示されていた。
 素描の《不退寺金堂印象》(1958年)は、奈良・佐保路の古刹・不退寺の堂宇を正面から描く。
 奈良びいきのわたしが驚いたのは、大和を訪う者にありがちな浪漫的な感傷ではなく、古建築のもつ力強さをストレートに、ある意味で冷静に捉えて、画面いっぱいに表そうとしていることだった。
 山口薫の目に映るもの・山口薫が捉えたものというのは、やはり並の人のそれとは違っていたのだろうなと思われた。(つづく)


朝の、すがすがしき八坂神社本殿。何必館は、ここから歩いて10分もかからない


 ※牧野伊三夫さんの寄稿。



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