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イサム・ノグチ 発見の道:3 /東京都美術館

承前

 書いていて恥ずかしくなるくらいの子どもじみた空想をしてしまうのも、イサム・ノグチの彫刻がわたしのなかの “こどもごころ” をいたずらにかきたててくるからなのだ(だからイサム・ノグチが悪いのだ)……とでも言い訳をしておこう。
 イサム・ノグチは子どもたちのための遊具をしばしばつくっている。2階の展示室にあった、赤い絵の具をチューブから勢いよくひねりだしたかのような《プレイスカルプチュア》もそのひとつ。
 作品を会場で観ていると、後ろから小学校低学年くらいの女の子がてってってと、この赤い物体に駆け寄ってきて、まさに飛びつかんとしていた。慌てたお母さんが制止をして事なきを得たのだが、この一件からは、イサム・ノグチの彫刻がいかに “こどもごころ” に訴えるものをもっているかが実態としてよく理解できたような気がした。
 《プレイスカルプチュア》はこの展示が終わったあと、野外の公共スペースに遊具として設置され、触れたり、乗ったりして遊べるようになるのだという(ちょうど昨日から)。惜しかったね、お嬢ちゃん。

 「1」でも記したように、今回の展示では作品解説が最小限にとどめられていたから、作品を前にしておでこのあたりに疑問符を掲げるにいたった来場者は、せめてものヒントとしてキャプションに記された作品名に目を遣ることになる。
 イサム・ノグチの作品のタイトルには、他の抽象作家と同じく「無題」とするもの、タイトルを見てもさっぱりというものも多く、取りつく島もないものだが、割にわかりやすい「そのまんま」がタイトルとなっているケースも案外にある。
 《幼年時代》は、いがぐり頭の少年の頭のようである。《サークルストーン(お地蔵さん)》はそのままお地蔵さん。作品解説にもそう書かれている。
 それでも、わたしの警戒心は解けない。そう単純なものでもないだろう。すんなりと、タイトルの言葉が表す意味そのものだけが造形化されているとは断定しきれない……むしろ、後に残るのは「無題」以上にどうしようもないもどかしさである。これを「余韻」と言い換えてもよいか。
 けれど、そんなところもまた、この人らしくていいよなあとも思うのだ。(まだつづく


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