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イサム・ノグチ 発見の道:2 /東京都美術館

承前

 展示の冒頭には「インターロッキング・スカルプチュア」と呼ばれる、金属のパーツを組み合わせた作例がいくつか出ていた。キュビスムの絵を思わせる楽しいもので、公園の遊具や、変わった形のコート掛け、三つ足の鼎にも見える。
 この種の作品を肉眼で観察して真っ先に浮かんだのは「金属なのに木のようだな」ということ。ブロンズの色みや質感は、金属らしい鈍重さや鋭角的な光沢を感じさせずに、むしろ使い込まれたアンティークの椅子の、角がとれて、まろみや艶の出てきたさまに近いのだ。表面の無数の傷は、そういった印象をさらに強くした。

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 “素材への逆行” とでも名づけられそうなこの現象は、ほかの作品からも看取された。
 金属なのに柔らかくとろけるよう。石なのにかろやか。鉄板を使って、折り紙をしてみせたりもする――こういった、素材の制約に従いながらも、表現においてはそれに縛られることのない物質への抗い方、自在な扱いようこそが、イサム・ノグチの真骨頂なのだろう。

 《ヴォイド》もまた、ブロンズでありながらまろみを帯びた質感をもつオブジェだが、同時に静的・重厚でもあり、揺るぎなど一分もみられない。これ以上はどろどろと融けてしまいそうもないなと断言できるくらいの、肝の据わった実存性が感じられるのだ。
 この造形を前にして否応なしに気になってくるのは、ブロンズで囲われた間(あいだ)の部分であろう。ブロンズの内部で生成され、満々と溜めこまれたエネルギーが波動となって、この空間に漂っている。作品名のVoid=空っぽとはまさにこの空間を指しており、作品としての主題はむしろこちらにある。無に有を見出す感性は、禅の教えや水墨画の余白への意識に通じ、けだし東洋的だ。
 卑近なたとえで恐縮だが、家電量販店に行けばこんな形をしたおしゃれな扇風機やらヒーターやらが販売されていて、冷風や温風はこの空間から発せられる。「手で触れることのできないところに、形なき形をとって、本質が存在している」。そうとでも言えば、もっとよく似ているように見えてこないだろうか。
 売り場でこの手のものが作動しているのを見かけると、わたしはつい、手を差しこんでみたくなる。衝動に抗えず手を伸ばすと、肉眼ではなにも見えないのに、そこには力が集まり、放散されていくさまを感じとることができる。何度繰り返しても、不思議な瞬間だ。
 できることなら、《ヴォイド》の空っぽのところにも、この腕を通してみたい。さらに許されるならば、サーカスのライオンが火の輪を潜るように、這いつくばって通り抜けてみたい――いや、ライオンなんて格好のよいものではないか。せいぜい、東大寺大仏殿の柱くぐりのような、無様な姿だろう。途中で引っかかって、抜けなくならないといいのだが……
 そんなしょうもないことを想うのである。(つづく


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