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没後50年 鏑木清方展:2 /東京国立近代美術館

承前

東西で異なる展示構成

  「没後50年 鏑木清方展」の特徴的と思われる点について、観覧前の段階ながら、思うまま書きとめたことがあった。

 2度の拝見を経て読み返してみても、ここで述べた印象が変わることはなかった。
 補足があるとすれば……東京国立近代美術館の展示と、巡回先の京都国立近代美術館の展示とでは展示構成が大きく異なり、東京展ではテーマごと、京都展では年代順の展示となっているというところか。
 章ごと入れ替える/差し替えるという程度ならまだしも、同じ展覧会でありながら、ここまで大々的なシャッフルがおこなわれるのは珍しい。
 これには、京都で清方の回顧展が催されることじたいが初めてである、という事情が関係しているという。
 ちゃきちゃきの江戸の人である清方は、描いた主題もまたほとんどが江戸・東京。上方への思慕は、驚くほどみられない。京都をはじめ関西地方を巡ったのも生涯一度きりで、そのときですら、旅の収穫が作品に表れた例は数点を数えるのみだ。
 清方とほぼ同世代の上村松園(松園が3歳年上)は、生前より美人画の大家として「西の松園、東の清方」と並び称されてきた。松園は生粋の京都人で、京(みやこ)の気質をよく反映し、当地の人にとって親しみのわきやすい作となっている。
 この「東と西」、さらには「男性作家と女性作家」という非常にわかりやすい対置構造を清方自身は心外に思っていたようだが、奇しくも現代においてもうまくはまり、定着している感がある。じっさい、本展を紹介する各種記事をみていても、「西の松園、東の清方」という常套句は、見出しや「つかみ」などで積極的に利用されているのだ。
 その是非はここでは措くとして、「京都の清方展」というのは「敵地に乗り込む」行為に近いとはいえそうだ。関西全域へ向けた名刺代わりに、オーソドックスな構成で作家像を見せる必要がある。そのために、東京展と京都展とで構成を一変させる方法が案出されたというわけだ。(つづく



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