没後50年 福田平八郎:2 /大阪中之島美術館
(承前)
本展は、4つの章からなっている。時系列であり、章立ては作風の変遷を端的に表してもいる。
図録ではこれに続いて「素描・写生帖・下絵」のセクションが設けられているが、展示では各章・各時代の関連する作品の周辺に、この種のデッサン類が散りばめられていた。
それにしても、第1章のタイトル。「手探り」といいきるのが新鮮であるし、わかりやすくてよい。じっさいに拝見してみるとそのとおりで、それはもう「手探り」としかいいようがないのであった。
大分中学校(現在の上野丘高校)の3年時に、苦手の数学がネックとなって留年してしまった平八郎。一転して画家となるべく京都で学びなおして、京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)へ進んだ。
本章に出ていたのは、この20代中盤までの作品。「手探り」も当然ではある。
《野薔薇》(1915年 大分県立美術館)のような、きまじめさの伝わってくる細密な画があれば、12羽のアヒルを洒脱に描く《池辺の家鴨》(1916年 大分県立美術館)もある。
琳派風というか、これよりも少し前の京都で、浅井忠がアール・ヌーヴォーを意識して図案化した琳派風のものに近いと感じられた。モダン琳派。
そして、「ゆるい」表現でもある。
《池辺の家鴨》以上に「ゆるさ」全開なのが《驢(ろ)の図》(1918年頃 大分県立美術館)や《兎》(1916年 京都国立近代美術館)。南画や俳画、竹久夢二など、同時代の表現の影響を感じさせる草画調の作。小川千甕や都路華香なども、こういった絵を描いていた。
上に挙げた3点は、かわいらしい動物画であると同時に「群像」という共通性がある。少しずつ姿を変えながら、さまざまな像が展開されており、配置や構図に工夫を重ねた跡がうかがえる。後年の鮎や果物を描いた絵には、モチーフの数が多めなものもあり、同様の感覚が認められそうだ。《緬羊(めんよう)》(1918年 大分県立美術館)は、外連味ある群像の意欲作。
《緬羊》が描かれた大正7年(1918)には、京都市立絵画専門学校を出た土田麦僊、村上華岳、榊原紫峰、小野竹喬ら若き俊英が国画創作協会を立ち上げている。
《緬羊》のヒツジの細密さ、「でろり」系の顔の描写には、近い存在であった彼らからの刺激のほどがうかがえる。
このように、さまざまな潮流を背景として、多感で活動的な学生時代を過ごした平八郎であったが、往くべき道として見定めたのは客観・写実の方向性であった。
宋元院体画のように謹直で、もわんとした霊気をまとった絵(下図の《游鯉》=1921年 個人蔵)、またときに「でろり」とした絵(《安石榴(ざくろ)》=1920年 大分県立美術館)、はっとさせられるほどの細密描写の絵(《朝顔》=1926年 大分県立美術館)が、第2章「写実の探究」には並ぶ。
こういった、この時期の平八郎の作には、国画創作協会の作家たちや速水御舟に大いに通じる同時代的な表現がみられる。格調は高いものだけれど、影のようにつきまとう緊張感に危うさを感じもするのだった。
とくに、細部への異様なこだわり——たとえば《夏池》(図版なし。1922年頃 二階堂美術館)の、蓮の葉に乗る水が玉のように弾かれるさまや、上の《朝顔》の竹ひごの切れ端・継ぎ目といったディテールをみていると、「いやたしかにすごいけど、ちょっと大丈夫かな」と思えてしまうのだ……事実、さまざまな要因が重なって、昭和3年(1928)に平八郎は神経衰弱と診断される。
章立ての上では「手探りの時代」は学生時代までを指しているが、それに続くこの第2章「写実の探究」の時期、大正後期から昭和初期に関しても、平八郎の画業全体からみれば、まだまだ「手探りの時代」とはいえるのだろう。
逆にいえば、いまそういえるのは、平八郎がこのどん底から這い上がったからこそでもある。
第3章のタイトルは「鮮やかな転換」。いよいよ、《漣(さざなみ)》の登場である。以降が、みながよく知る画家「福田平八郎」のすがたといえよう。(つづく)
※大正の平八郎には、こんな絵もある。《夜桜》(1918年 大分県立美術館)。意外に小品である。
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