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開館60周年特別展 横山大観と川端龍子:1 /大田区立龍子記念館

 ——異端児。
 日本画家・川端龍子(1885~1966) には、そんな呼び方が似合う。

 経歴からして、ちょっと異色である。
 もと西洋画を志して渡米したが、ボストン美術館で《平治物語絵巻》を観て衝撃を受け、転向。日本画を独学で学んで、わずか4年で日本美術院の同人に迎え入れられた。
 作風もまた、かなりの個性派である。大きさのことがよくいわれるけれど、モチーフの着目の仕方もおもしろい。
 本展の出品作でいえば、トウモロコシ泥棒の少年を描いた《盗心》(1923年 東京国立近代美術館)、草むらで賭け札に興じる《賭博者》(1923年 大田区立龍子記念館)、大輪の白蓮の近景になにか落ちている《花と鉋屑(かんなくず)》(1920年 大田区立龍子記念館)などから、その着想の奇なることがうかがえる。
 これらはいずれも初期作だが、「なんでまたそんなものを!」とツッコミを入れたくなる型破りの画題・モチーフは、生涯をとおしてみられた。

 そんな龍子が、日本美術院のなかで浮いた存在となるのは必然。昭和3年(1928)に院展を脱退、翌年には大作主義の「会場芸術」を標榜して「青龍社」を結成する。
 大家・横山大観(1868~1958)率いる一大派閥に、龍子は敢然と反旗を翻したのである。

川端龍子《鳴門》(右隻左隻
1929年・青龍社第1回展 山種美術館
※本展の出品作ではなく、参考。

 青龍社の第1回展は、院展と同日・同会場での開幕であった。
 それが意図的なブッキングだったかは、龍子の述懐からはわかりかねたのだが、ここに至るまでの経緯からすると、「たまたまかち合った」などというのは苦しかろう。
 少なくとも大観は、気が気ではなかった。目をかけていた後輩が、これ見よがしのあてつけ、挑発としか思えない暴挙を仕掛けてきたのである。
 会場の廊下で鉢合わせになったとき、大観が放ったひとことは…… 

 「君、嫌なことするね!」

 無理もない。
 大観と龍子の、長い断絶がはじまった。

 この「龍子が院展を辞し、『会場芸術』を掲げて青龍社を結成した」という歴史的事実は、よく知られたところ。
 また院展=大観であるから、廊下のエピソードを知らずとも、「横山大観と川端龍子」という本展のタイトルに触れたとき、「……穏やかじゃないな」と胸騒ぎをおぼえた方は多かったのではと思われる。
 わたしがまさにそうだったのだが、その胸騒ぎを打ち消すかのように、本展ポスターの大観と龍子は、いっぱいの笑顔を共に咲かせている。
 とくに、大観の呵々とした破顔ぶりは、わだかまりのあったことなど微塵も感じさせない。爽快なまでだ。

 この写真がすべてを物語っているが、因縁のふたりはその後、和解した。大戦を挟んで、20数年の歳月が経っていた。
 断絶のことはともかくとして、最終的にこうして和解したのだということは、初めて知ったのだった。(つづく

大田区立龍子記念館。笑顔のふたりが迎える
伊豆を愛した龍子。修善寺から移植された河津桜が満開だった



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