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小津安二郎とブンガク /鎌倉芸術館

 鎌倉国宝館や鎌倉文学館には何度も行っているけれど、鎌倉芸術館には馴染みがなかった。
 鎌倉芸術館は大船駅から徒歩圏内に位置し、音楽のコンサートや演劇、伝統芸能などを上演している施設である。
 ゲイジュツといっても、いろいろある。
 本展は、小津安二郎の人と作品をとおして、映画と文学という2つの芸術の架橋を試みるものだ。
 昨秋、同じ神奈川県内の茅ヶ崎市美術館で開催されていた「小津安二郎の審美眼」展は、映画と美術との架橋であった。ちょうど好対照をなす企画といえよう。

 2023年12月12日、小津安二郎が生誕120年・没後60年を迎えた。当日は濱口竜介監督と岩下志麻さんによるトークショー、作品の上映会が鎌倉芸術館で催され、多くの小津ファンが集った。わたしも『秋刀魚の味』の上映と志麻さんのトークに参加。
 同日からわずか6日間のみ、同館のギャラリースペースでおこなわれたのが本展である。
 展示資料の数については、NHKのニュースでは100点、某新聞では50点との報道。蓋を開けてみると新聞が正しかったわけだが、けっして少なめということもなく、内容の濃い展示となっていた。各章ごとに、私見を述べていくとしたい。

本展リーフレット。会期は7日間だが、開幕翌日の13日は休館日で、正味6日間

◾️小津の撮影現場

  『彼岸花』に登場する刺繍のテーブルクロスを敷いた上に、ピケ帽、メガネ、白い足袋、ストップウォッチといった小津の愛用品や、劇中でたびたびみかけるドイツ製の赤いヤカンなどをディスプレイ。
 覗きケースに平置きされていた會津八一の書軸は、『秋刀魚の味』で元・漢文教師「ヒョウタン」(東野英治郎)の背後の床に掛かっていたもの。『秋刀魚の味』を観たばかりだったので、すぐに実物を拝見できてよかった。

◾️小津とブンガク

 芥川龍之介を愛読した小津は、最晩年に芥川の短編「山鴨」をもとにした新作『大根と人参』を構想していたものの、死去により果たされなかった。小津の若い頃の日記からは、「山鴨」の初出である『中央公論』大正10年1月7日号をリアルタイムで読んでいたことが判明する。探し当てた側の執念がすごい。
 小津の蔵書は、没後に鎌倉市へ寄贈されている。その一覧が展示されており、文学書に混じって美術書が多くあったのが興味深かった。ルオー『回想』、岸田劉生『美の本体』『劉生絵日記』、水原秋櫻子『安井曾太郎』、『本朝画人伝』など。

◾️小津と詩歌

 小津は余技で句作を残した。
 日記から推測すると、小津が最も好んだ俳人は久保田万太郎であったという。
 これには膝を打つ思いというか、たいへん納得であった。というのも、小津のちまっとした字、とくに絵に句を添えた色紙などにみられる筆跡や文字の散らし方は、いわれてみれば、万太郎の書きぶりにそっくりなのだ。
 小津のその種の色紙が数枚出品されるいっぽう、万太郎の書はなかったけれど、もし比べられたら、おもしろい展示になるだろうなと思った。

◾️小津の身のまわり

 装身具には、小津のすきな色であった赤が、これでもかと取り入れられていた。ネクタイ、マフラーは赤のチェック、煙管・たばこ入れは粋な赤の縞、モンブランの万年筆ケースは赤い革製である。
 みずからデザインした、引き出しの多くついた文机は総赤漆の仕上げ。その上には、(こちらは赤ではないけれど)鳥取の民藝指導者・吉田璋也プロデュースの電気スタンドが乗せられ、よく調和していた。

 自室に飾っていた書画も、こちらのコーナーに登場。岸田劉生の淡彩画《小流春閑》に會津八一の三字書《游於藝》は、横浜や茅ヶ崎の小津展でも拝見していた。

◾️小津と谷崎潤一郎

 小津が作品を愛読するとともに、本人と深く交友を結んだ作家が3人いる。谷崎潤一郎、志賀直哉、里見弴である。
 谷崎のコーナーでは、谷崎筆の短冊に「藝」一字書、谷崎の細君からの手紙といった小津の旧蔵品を展示。手紙には、小津が谷崎に仲介したコリー犬「ボクちゃん」の近況が書かれていた。

◾️小津と志賀直哉

 小津は、志賀直哉を敬愛した。
 小津の日記には、『暗夜行路』の描写からイギリスの時計ブランド・ベンソンへの憧れをいだきはじめたことが記されている。のちに小津は志賀と同じベンソンの懐中時計を使いはじめ、志賀にベンソンのチェーンを贈るなどしている。
 ふたりしてスーツで決め、肩を並べて歩むツーショット写真のなかの小津は、はにかみ気味の表情。なんともいじらしい。

◾️小津と里見弴

 志賀の白樺派以来の盟友にして、鎌倉文士の親分的存在だった里見弴。小津とは年齢こそ離れていたものの、友人のような近い距離感であったという。
  『彼岸花』『秋日和』は、里見の原作。この2作と『早春』『秋刀魚の味』のプロデューサー・山内静夫は、里見の四男である。小津と共作した際、里見はずいぶんとやりこめられたとか。
 小津と里見、ふたりの関係性を示す文章の引用や記事紹介のほか、里見弴による「藝」一字書を展示。

 ——お気づきの方がいらっしゃるかと思うが、本展には、小津ゆかりの「藝」の字がいくつも登場した。
 會津八一の三字書《游於藝》。谷崎潤一郎と里見弴による、それぞれの「藝」一字書。そして展示の最後には、小津自身による「藝」一字書までも……

(リーフレットを部分拡大)

 同じ文字だからこそ、書きぶりには個性が色濃くにじみ出るものだ。
 しかし、当の小津の目には、その字の向こうに微塵もぶれない、同じ「藝」のありようが見えていたのではないだろうか。
 小津自身による「藝」の字をみながら、そんなことを考えた。

 

周辺一帯は松竹大船撮影所の跡地。すなわち、小津がみずからの「藝」を追い求めた現場でもあった。かろうじて1つだけ残った、松竹マークのマンホールの蓋。松竹を偲ばせる要素は、この街にはいまや驚くほど少なく、断片的である
小津組が常連だった食事処「月ヶ瀬」(佐田啓二の奥様の実家)はすでに跡形もない。こちらは、山田組が常連で、渥美清さんもよく来たという蕎麦屋




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