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20代のぼくが東京五輪開会式を見て思わず涙を流した理由。

皆さん

こんにちは、東京オリンピック楽しんでいるだろうか。

柔道やソフトボールのような注目の選手が集う競技をはじめ、今回から始まったサーフィン、スケボーなどでも快進撃の数々。金メダルの獲得数は現在中国、アメリカに次いでトップ層に付けているほどの日本勢の活躍ぶりに毎日ニュースに目が離せないのではないだろうか。
始まる前には五輪に反対する声も、開会式まで二週間を切ったころから勢いを潜め、いまや何処にいるのかもわからない。国立競技場の前でプラカードでも掲げているのだろうか。暑いのにご苦労なことである。こんな日にはアクエリアスがおすすめだ。

さて、今回はそんな2020年東京大会について20代のぼくの感じた思いを書き連ねようと思う。


2013年九月「おもてなし」のフレーズがIOC総会から世界に広がった。このとき、イスタンブールとマドリードを押しのけ2020年の東京大会が内定した。この興奮と期待感はいまだに記憶に鮮明で、自分が生きている間に自分の国でオリンピックがみられる幸運に、招致に尽力した著名人たちがそうしたように友人や家族と肩をだきあったものである。

さて、おもてなしとは、「物を持って成し遂げるだとか」「表裏がない」だとかその語源は諸説あるが、今回の大会については

「裏ばかりで表なし」というのがぼくの現在の所感である。


開会式にゲーム音楽が使われた、サブカルチャーだったものが認められた瞬間

スポンサー企業の欠席表明。小山田氏、小林氏の土壇場退任など、開催直前から不穏な空気を放っていた東京大会開会式はやはり準備不足感の否めないものになっていたと思う。ピクトグラムなどの見所は確かにあったが、無観客故か、国論を二分したまま強行された代償か、国威発揚を賭けたイベントのオープニングセレモニーとしてはいささか暗すぎるというのが正直なところである。「多様性と調和」が今大会の理念であるとのことだ。スポーツの本質とはまさしく、これというのはうなずける。生まれた場所、肌の色、瞳の色、信じる神や自分を自分と定める生き方、こういったものを平等と了解し合い、フェアな精神で肉体と技をぶつけ合う最高峰の世界大会が五輪である。

開会式が終わり、ぼくは泣いた。
――七年間、期待をもって待ち続けたものはこんなものではなかった。

ぼくが見せられたものは、病床の老人の走馬灯だったのだ。それも再現性の低く、ひどく卑しいものだ。

『多様性と調和』とは責任者空位とプログラムの急な差し替えによって起きた統一感のなさの楯にしてよい程度のテーマだったのであろうか。国際化が進み、マルチオリジンの子供たちが国内外で増えるこの国は、例えば欧米がそうであるような人種のるつぼ的な社会の経験者としては一年生であり、日本が国際社会へ向けて思いを新たに、「これが今のぼくたちだ」と自己紹介する。それほどの重い意味を持つはずだ。

ここで紹介するまでもなく『多様と調和』を標榜した開会式の背景にあるのは、それとは真逆の選民意識の悪臭を放つ腐敗と汚濁であったのは周知のことだろう。Mikkiko氏が追放され、佐々木氏が後釜に座った様子は世界に向けて翼をさらに高く伸ばそうとする次世代のクリエーターから、翼の美しさを妬んだ老人が不当にその機会を奪ったように映って仕方がないのだ。

そして入場で使われたゲーム音楽たち。ぼくは悔しかった。

嬉しかったと興奮するゲーマーたちの正気を疑う。
思い返せば賄賂で開催権を買い取ったという疑惑から竹田氏がJOC会長を退任したころから、政治的な色彩が濃厚になった今大会である。予算の中間搾取とコロナ禍における強行開催、そして関係者の過去の不祥事による炎上という、全員がもろ手を挙げて歓迎できない大会において、ゲームが政治利用された。本当に見るに堪えない。まして、アニメやゲームのようなかつてサブカルチャーと呼ばれた文化は世界にとって日本といえばというやっと地位を得たものだ。十年前は、凶悪事件のたびにアニメ・ゲームを遠因や原因に結びつけようとする言説に目が疲れたものだった。やれ、冷遇されてきたものを日の目を見させてやると言わんばかりのわざとらしさを感じ、純粋な気持ちで楽しめなかった。

確かに、日本を代表するカルチャーとして世界に発信された。

冷静になってほしい。本当に誇らしいだろうか。都合よく政治利用しているとは本当に思わないのか。十年後、二十年後、純粋な気持ちで今回流れた音楽を振り返れるだろうか。どんなに不祥事を起こし、批判を集めようともゲーム音楽を流しておけば手のひらを返すだけと思われてよいのだろうか。

ぼくたちのこういった精神性が、為政者に舐められる所以のように感じてならない。

やってよかった東京オリンピック

これを書いている2021年8月1日においてこんな記事を見つけた。

その一方、現実問題として東京都内のコロナ新規感染者は4000人を超え、全国では一万人を超えている。

上の記事は感染拡大についての小池都知事の見解である。人流の増加についてオリンピックの影響をことさらに否定し、若年層の浅薄かつ軽率な行動を原因として誘導する言説のように聞こえる。

いうまでもなく、若年層はワクチンを打てないのだ。予約が始まるのは八月~秋に入ってであるし、依然として接種券が自治体から到着していない人もいるだろう。そして、ぼくたちは働いている外出するのはこのためだ。ただでさえ少ない給料から社会の大多数を構成する、すでにワクチン接種の済んだ高齢者たちの医療費や年金を支えるために、税金を納めている。例えば、毎月引かれていくこの税金を、資産運用や自己投資、学費の返済のために自由にできたらとか、もっとささやかに、これさえなければおかずが一品増やせるとかそんな思いを抱えている同世代も少なくないはずだ。

どういう意図で、小池都知事がこのような世代間闘争をあおるようなコメントをしたか冷静に考えてみると、面白い共通点を見つけた。

これは中国や韓国が、政治の不満を、反日感情を刺激することで発散させている構造とよく似ているのだ。

これと同様の行いを、同じ国の人間に、まして同じ自治体の、同じ文化を、過去を共有する人たちへ向けて、若いからという理由で、やっている。

なるほど、多様性と調和とは、なんだったろうか。少なくともこの中には、年齢や職業のような、あって当たり前のものが考慮されていないように思える。

ただでさえ、若年層は人数が少なく、投票に足を運ばない愚か者ばかりである(これは若年層自身の責任も否定できないわけだが)。民主国家において参政しないグループなど、政治的な配慮に値しない、つまり外国人と同じなのだ。

それゆえに政治家たちは、今回の事態について声高に叫ぶ

「我々は味方です。コロナを蔓延させている原因、恨むべき敵は若者たちです。彼らはいやしくもワクチンを打たず、マスクもしないで、用もないのに外を出歩き、路上で酒をあおり、仲間内で密状態で飛沫を飛ばし合っています。私たちはこんなに頑張っているのに、彼らのせいで感染拡大が収まりません

狂気の沙汰だ。誰が好き好んで、感染のリスクにさらされて外に出るものか、誰が好き好んでワクチンを打たないまま電車に乗るものか。

それよりも、この一年間、五輪開催なら開催でそれに向けた感染対策やワクチン接種計画の整理を怠慢していた責任など感じていないのだろうか。これも全て若者が悪いのだと喧伝すれば次の選挙も勝てると信じ切っているのだろうか。

それでも、やってよかった東京オリンピック

ぼくはそうは思わない。
そもそも今大会の評価は今大会の開会式に決まるものでも、まして開催期間中でも、閉会式でも定まらないはずだ。

次回大会北京オリンピックも終了し、さらに言えばパリも終了し、それぞれの評価がそろって初めて決まる。他国のオリンピックを姿見とし、東京五輪あとの日本を見て、この時、本当にやってよかったと思えるのか。これが重要なのだ。

世界中がコロナ禍の混乱に見舞われ、外国選手は調整しあぐねている中での五輪の強行である。日本政府が行うべきだったのは、天下り先や自身が株式を保有する企業への五輪関連業務の発注とそうした故の強行開催ではなく、IOCと次回大会開催都市(北京・パリ)への開催時期変更の交渉だったと思う。

開催順序を入れ替え(割り込み)させてもらうとか、後ろ倒してもらうとかそういったことを交渉さえ試みなかったのはなぜなのだろうか。事情が事情であるゆえにそこまで非現実的な提案にも思えない。それとも、日本という国が世界に対して持つ発言力などそういった妥当な提案さえも許されない程度だというのだろうか。

誰も指摘したがらないので敢えて言わせてもらうが、今大会はフェアではない。
JOCは招致の際に、日本の夏の猛暑をごまかしており、選手たちがその代償を支払っている。東京湾の汚水問題は解決されぬまま、黄色い水しぶきがすさぶ海をトライアスロン選手たちは泳いだ。競技後、嘔吐する選手たちの姿は非常に痛ましかった。

そして何よりも、コロナ禍は続いたままである。

外国勢のコロナ禍の調整難に対して、日本勢はホームの恩恵を受けていると喜ぶ連中は恥を知るべきだ。この大会で獲得された日本勢のメダルにはケチが付きかねない。例えばゴルフでは有力選手がコロナ陽性のために欠場を余儀なくされ、体操でも、コロナとのかかわりは明言されていないものの、精神不安を理由に欠場する選手が出ている。

勿論、勝負の世界は表向きほど美しい、きれいごとだけの世界でないのは事実だ。それを差し引いても、今回のメダルの真の価値を証明するにはやはり次の夏季オリンピックで連覇してもらわなければ、コロナ禍を利用したメダルの収奪だと言われかねないだろう。

あるいは日本は、非常事態下においても公正さを最低限担保できる大会運営を世界へ手本として示す機会を失したとも受け取れる。

おわりに

悲しいことに五輪出場選手への誹謗中傷のような荒れ方は、やはり今大会が国民全員に歓迎されているわけではないことの証左のように思う。個人攻撃に価値を見出す思考回路は理解に苦しむが、確かに有力選手の中から反対の声が上がれば、政府の中にももう少し冷静になる人が増えたのではないかと期待してしまう心までは否定できない。オリンピックへ投じられた金額は三兆円、これは直接開催にかかわる費用でこれのほかにさらに一兆円以上の国費が費やされたという。残念ながら、今大会にそれほどの価値があったのか。あったのだと断言するにもないのだと決めつけるにも、時期はまだ早い。早いのだが、期待できない材料がそろいすぎているように感じる。


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(kobo)




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