佐伯
出身地、年齢、身長体重、家族関係不明。寧ろ分かっているのは
①「佐伯」という名前であること
②田口家の書生をしていること
③田川敬太郎から「玄関番」と見做されていること
④須永市蔵と田口千代子の間の複雑な事情を知っていること
……のみである。問題はこの程度のキャラクターに何故「佐伯」という立派な苗字が与えられたのかということ。
佐伯が名前を持って作中に現れるのはこの場面のみである。小間使いの「作」の苗字は解らない。もしも佐伯がこの場面にしか現れないとしたら、役割の重要さから言えば「作」よりもはるかに下なので、「佐伯」という立派な苗字までは必要なかったのではないと思われる。しかし「彼はただ漠然とした顔の筋肉をいつもより緊張させて」とあるので当然初対面ではない。夏目漱石は人物を名前を伏せて登場させておいて、かなり後になって名前を与えるということをする。してみれば佐伯とは、
この声の主でもあり、
この小倉の袴をはいた書生も佐伯なのではなかろうか。さらに、
これも佐伯だろう。
この書生も「例の」でつながるので佐伯ではないかと考えられる。
この例の袴を穿いた書生も佐伯だろう。そして「名前は分りましたろう」という田口の問いは、読者にも向けられていると考えてよいだろう。
明示的ではないが、ここで田川敬太郎は佐伯の名前を知ったものと考えられる。しかし佐伯という名はまだ伏せられる。
佐伯の「書生」という立場はそのおかれた環境や寄宿する家の考え方、あるいは時代によって大いに異なる。『彼岸過迄』における佐伯は「玄関番」「電話番」「応接係」「秘書」であろう。住み込みで雑用をこなし、学校に通わせてもらうという書生もあり、丁稚のようにこき使われる書生もあった。谷崎潤一郎の『女人神聖』の由太郞のようなものは丁稚である。
佐伯は高等教育を受けたとは書かれていないものの、実際家の田口要作の信頼を得て受付事務を一任されているようなところがある。田川敬太郎に失礼な態度を取られても淡々と自分の仕事をこなし、市蔵と千代子の間の複雑な事情を知りつつもそれを嬉々として漏らすこともない。
松本恒三の田口要作評に基づけば佐伯は「役に立つ」上に「安心して使える」男なのだろう。そのように見て行くと、「細君に呼ばれて内向きの用を足す場合もあった」という田川敬太郎との比較において、実際家の田口要作からみれば佐伯の方が価値のある男だと考えられる。
そしてむしろ「たかが玄関番の書生」と高等教育を受けた自分を勝手に高い位置に置く田川敬太郎の傲慢に気が付く。
田口要作>松本恒三>須永市蔵>田川敬太郎>>>>森本
経営者>資産家>土地所有者>>>>労働者
……として整理してきた「身分」の問題の中に、「作」や「佐伯」を組み込むと、明らかに当時の社会の上澄み部分を描いている『彼岸過迄』が、一方では確かに下層部分にも接地していることがわかる。
作も佐伯も労働者という意味では森本と同じではあろうが、その位置を守り続けている。作や佐伯の存在は実際家の東京朝日新聞の読者の潜在意識に安堵を与える役割も果たしていたのではなかろうか。
[余談]
太宰治論2.0はそんなに複雑なものではない。言いたいことは概ね二つだけ。
①太宰は『右大臣実朝』をいじっている
②『人間失格』は笑って読むべし
……これだけだ。この二点だけ吞み込めれば、他の作品の読み落とし、誤読も簡単に糺せると思う。
これの二点以外にも読み落としや誤読はあると思う。ただこの二点が如何にも高い壁なのだ。
特に『右大臣実朝』に関してはきつい。この読みはありとあらゆるビッグネームを完全否定するものとなる。
逆に言えばありとあらゆるビッグネームなんて実はたいしたことがないんだという話にもなる。
太宰だって夏目漱石を「俗中の俗」とみなしていたのだから、そううこともあるんじゃないの。
https://note.com/kobachou/n/nc9ce18197448