見出し画像

『彼岸過迄』を読む 27 経済小説としての『彼岸過迄』

 26は詰まらなかったな、本筋の話ではないし、大一中身がないと思われた方に弁解です。森本の安否は確かにどうでもいいことです。しかし漱石はわざと森本をどうでもいいものとして物語の外側に弾き出しているようなところはないでしょうか。

 数日前こんな記事を書きました。高等遊民が「家庭的」とは貧乏だから子沢山になるという「落ち」だという話です。子作りに励むのが高等遊民だという漱石の洒落です。今でこそ洒落にはなりませんが、漱石の場合はいわゆる自虐ネタとして成立していますね。

 そうは云いながら、この「貧乏」は相対的な概念でかつ主観「あなたの個人的な感想」ですから、ちょっと用心して読む必要があるのだと思います。

「それでも妹婿の方は御蔭さまで、何だかだって方々の会社へ首を突っ込んでおりますから、この方はまあ不自由なく暮しておる模様でございますが、手前共や矢来の弟などになりますと、云わば、浪人同様で、昔に比べたら、尾羽うち枯らさないばかりの体たらくだって、よく弟ともそう申しては笑うこってございますよ」(夏目漱石『彼岸過迄』) 

 この「昔に比べたら」が相対的なところですよね。つまり松本家、松本恒三の親は元々はかなりのお大尽だったのではないでしょうか。だからこその「昔に比べたら」であり、今でも田川敬太郎などから見ると、自分は書生で、須永市蔵は若旦那なのです。

 須永はもとの小川亭即ち今の天下堂という高い建物を目標に、須田町の方から右へ小さな横町を爪先上りに折れて、二三度不規則に曲った極めて分り悪い所にいた。家並みの立て込んだ裏通りだから、山の手と違って無論屋敷を広く取る余地はなかったが、それでも門から玄関まで二間ほど御影の上を渡らなければ、格子先の電鈴に手が届かなくらいの一構であった。もとから自分の持家だったのを、一時親類の某に貸したなりしに久しく過ぎたところへ、父が死んだので、無人の活計には場所も広さも恰好だろうという母の意見から、駿河台の本宅を売払ってここへ引移ったのである。もっともそれからだいぶ手を入れた。ほとんど新築したも同然さとかつて須永が説明して聞かせた時に、敬太郎はなるほどそうかと思って、二階の床柱や天井板を見廻した事がある。この二階は須永の書斎にするため、後から継ぎ足したので、風が強く吹く日には少し揺れる気味はあるが、ほかにこれと云って非の打ちようのない綺麗に明かな四畳六畳二間つづきの室であった。(夏目漱石『彼岸過迄』) 

 このとおり、須永の家は決して貧乏とは呼べない、それなりの構えですね。間取りはそう大きくはありませんが、門から玄関まで二間ほどの遊びがありますので、坪単価1000万円の二坪を加え、もろもろの土地代を考慮すれば、現代で言えばオープンハウスやタマホームの狭小住宅ではなく、積水ハウスとか三井ホームなどの高級戸建てのイメージですかね。つまり5、6000万円ではなく最低でも一億、二億のそこそこの家に須永は済んでいます。田川敬太郎からみれば「若旦那」というのは当然の見立てでしょう。

 そう云えば、遺伝だか何だか、叔父さんにも貧乏な割にはと云っては失礼ですが、どこかに贅沢なところがあるようですし、あんな内気な母にも、妙に陽気な事の好きな方面が昔から見えていました。(夏目漱石『彼岸過迄』) 

 松本恒三は飽くまで贅沢のできる貧乏なんです。「外套の裏は繻子でなくては見っともなくて着られないと云ったり、要りもしないのに古渡りの更紗玉とか号して、石だか珊瑚だか分らないものを愛玩したりする」程度の余裕はあるわけです。

 代助はやがて書斎へ帰って、手紙を二三本書いた。一本は朝鮮の統監府に居おる友人宛てで、先達って送ってくれた高麗焼きの礼状である。一本は仏蘭西に居る姉婿宛で、タナグラの安いのを見付けてくれという依頼である。(夏目漱石『それから』) 

 タナグラって食い物じゃありませんから、贅沢品ですよ。代助は余裕がありますね。

 タナグラは214,500円で売られていました。「石だか珊瑚だか分らないもの」の値段は解りませんが、要するに生活必需品以外を買い求めるのは贅沢ですし、贅沢が出来るのは少しは余裕があるからですよね。

 そりゃ世の中には借金して迄贅沢をする人もいるでしょうが、松本恒三はあくまでも須永家基準で「貧乏」なのであって、相続財産で暮らしていけるという意味で一般的な朝日新聞の読者に比べれば豊かなのではないでしょうか。田川敬太郎も田舎には田畑があるわけです。三四郎の下宿はまだ電気を引いていませんが、田川敬太郎の下宿は電気も引かれていて電話もあり、昼にも膳が出るのです。

 彼は須永のような一人息子ではなかったが、(妹が片づいて、)母一人残っているところは両方共同じであった。彼は須永のように地面家作の所有主でない代りに、国に少し田地を有もっていた。固より大した穀高になるというほどのものでもないが、俵がいくらというきまった金に毎年替えられるので、二十や三十の下宿代に窮する身分ではなかった。その上女親の甘いのにつけ込んで、自分で自分の身を喰うような臨時費を請求した事も今までに一度や二度ではなかった。だから位地位地と云って騒ぐのが、全くの空騒ぎでないにしても、郷党だの朋友だのまたは自分だのに対する虚栄心に煽られている事はたしかであった。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 要するに無理に働かなくても食っていけるわけです。そう言えば、

 それは宝亭と云って、敬太郎の元から知っている料理屋で、古くから大学へ出入りをする家であった。近頃普請をしてから新らしいペンキの色を半分電車通りに曝して、斜かけに立ち切られたような棟を南向に見せているのを、彼は通り掛りに時々注意した事がある。彼はその薄青いペンキの光る内側で、額に仕立てたミュンヘン麦酒の広告写真を仰ぎながら、肉刀と肉叉を凄じく闘かわした数度の記憶さえ有っていた。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 田川敬太郎は宝亭に何度か通っていましたね。この世に食い物屋は宝亭だけじゃないでしょうから、当然ほかの店にも何度か通っていたということになりますね。神田から本郷台(田川敬太郎の下宿の位置、ほぼ東大の目の前)までの間にいくつ洋食店があったのか解りませんが、田川敬太郎は苦学生ではなく、バイトもせずに仕送りだけで贅沢に暮らしていたわけです。淀見軒でライスカレーをおごられる三四郎よりかなりハイソです。これ殆ど『なんとなく、クリスタル』的な話じゃないですか。

 大昔、「プチブルに憧れる貧乏OLが四畳半のオンボロアパートで村上春樹作品を読んでいる」という訳の分からない角度からの批判がありましたけど、よく考えてみたら『彼岸過迄』『それから』『行人』『こころ』はプチブルの世界ですよね。それを朝日新聞の読者が読んでいる訳です。満員電車で通勤する灰色の化け物に読ませている訳です。

 どうも主人公たる田川敬太郎の基準で見ると須永市蔵は若旦那、というところで誤魔化されています。

 改めて経済的な豊かさの比較でみると、

田口要作>松本恒三>須永市蔵>田川敬太郎>>>>森本

 ……という格差が描かれていたなと思えてきます。

これは、もう少し簡略化してしまうと、

経営者>資産家>土地所有者>>>>労働者

 ……という関係性であって、

 これが田川敬太郎の物語であるという枷を外して読めば、『彼岸過迄』は田畑も持たず、しかるべきコネクションもない、無学な労働者・森本が大連に堕ちて安否不明になる話としても読むことが出来るわけです。無論これは陰画です。ただ経済小説として読めば、そうも読めるという話です。

 森本が北海道の内地を測量して歩いたのは酔狂ではないでしょう。北海道開拓は国策でした。

 状袋へ名宛を書くときに、森本の名前を思い出そうとしたが、どうしても胸に浮ばないので、やむを得ず大連電気公園内娯楽掛り森本様とした。今までの関係上主人夫婦の眼を憚らなければならない手紙なので、下女を呼んでポストへ入れさせる訳にも行かなかったから、敬太郎はすぐそれを自分の袂の中に蔵した。彼はそれを持って夕食後散歩かたがた外へ出かける気で寒い梯子段を下まで降り切ると、須永から電話が掛った。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 森本の手紙には森本の下の名前を書いていなかったようです。田川敬太郎は森本の下の名前を思い出せません。それだけいい加減につきあっていたわけです。高木の下の名前が解らないのは、須永市蔵が彼を拒絶したかったからでしょう。森本の下の名前は明かされないのは、「森本のような浮浪の徒といっしょに見られちゃ、少し体面にかかわる」として田川敬太郎も森本を差別し、疎外しているからでしょう。良い悪いではなく、そういう社会構造が現にあったのです。日露戦争後、多くの食い詰め者が世界中に移住しました。陽画としての『彼岸過迄』はその社会の上澄み部分を描いています。


[余談]

 これでいこう。












この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?