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谷崎潤一郎の『女人神聖』を読む あるいはハンサム・くず・テロリスト

 谷崎潤一郎の『女人神聖』は、これまでに書かれてきた谷崎作品から、さまざまな要素が切り出され、組み合わされたような感のある作品だ。例えば「光子」という名前には覚えがある。奉公に出されるとか、艶書だとか、追い出されるとか…。そんなことは『鬼の面』にもあった。女装への憧れ、待合での女遊び、高等学校、学費の未納、唾吐きもあった。兄と妹。金がすべて。当てにならない大人…。
 では逆に何がなかったのかと考えてみると、

 小よしはいきなり夜具のを撥ね飛ばして、猫のやうに精悍に身を躍らせたかと思ふと、白い腕を鞭のやうに伸ばしつゝ、煙管の先でぴしりツと由太郞の橫面を擲つた、小鬢のあたりを狙つたらしかつたが、狙ひが外れて口を强く打つたらしく、雁首の先がカツキと前齒に引つかゝり、下唇の皮を無慘に傷けて血がたたらと流れ出た。それほどの目に會はせるつもりではなかつたのに、血を見ると共に一層女は狂暴になつて、煙草を捨てヽ立ち上がるや否や、襟髪を取つて男を矢庭に衝き直しながら、顔中を引搔き廻し、揚句の果ては口の中へ手を押し込んで、口腔をがりがりと搔き破った。(谷崎潤一郎『女人神聖』)

 今まで取り上げてきた中ではこれがなかったか。
 しかしこうした女のふるまいは発作的なものに過ぎない。むしろここではだにのように女に付きまとおうとした由太郎が振り払われるも、「世の中に女と云ふ者がある以上は、彼の身を寄せる家は、到る所に有るやうな氣がした。」という、『お才と巳之助』の巳之助とはまた違う厄介なものが現れたと見てよいだろう。
 巳之助は度の過ぎたマゾヒストだった。由太郎はマゾヒストではない。そこには女に対する強い憎しみが見える。繰り返し述べるように、こういった見え透いた感情の吐露に見えかねない要素が、谷崎潤一郎という作家の最も信用のならない特徴である。
 むしろ谷崎はこれまで、まるで思考実験を繰り返すように設定やら前提条件をずらして、「人間はどう生きるべきか?」を真面目に考え続けてきたと言えないだろうか。
 例えば、

自分が生來不正直な人間なのに、正直の眞似をしたところで何にもならない。不正直がいゝと思へば、何處までも不正直を實行して見るがいゝ。世間から惡人と云はれても、どんなに迫害され排斥されても、自分で斯うと信ずる事を固く守つて、死ぬまで實行し通すことが出來さへすれば、人間は何をしたつて差支はない。(谷崎潤一郎『女人神聖』)

 こんな塾長の教えに対して、由太郎は「そんなものは理屈だ」とあっさり切り捨て、自分は理屈を貫くのではなく、ただ楽をして好きなことをして遊んで暮らすのが一番いいと開き直る。「死ぬまで實行し通す」なんて面倒くさいことをしなくても、なんとかのらくらして樂ができればいいと考えてしまえば、あれかこれかという説教はやはり堅苦しく空しい。
 大抵のくずに投げかけられる言葉は凡庸だ。「それでいいなら好きにすればいい。(どうせろくなことにならない)」「いつか思い知るだろう。世の中そんなに甘くない」とあくまで他人事だ。そう思ってみれば、あらゆる説教があくまで他人事なのである。必死に戦っている人間は、他人を説教する言葉を持たない。人に説教する人間は基本的に閑で、説教したいだけだ。
 谷崎は、いや、由太郎は空しい説教を無視する。

 当事者としてくずと向き合うこと、顔以外に誇れるものがなく、頼れる身寄りがなく、虚栄心が強く、不真面目で、贅沢を好み、兎に角金が欲しい由太郎という俗物という立場で、丁稚奉公というあまりにも理不尽な制度に向き合ってみれば、そこから過激な社会批判に向うよりはむしろ、小さな嘘を重ね、上手く立ち回ることの方がよりリアルに見えてくる。
 むしろここで書かれていない飛躍、この社会の支配者に対する怒り、テロへの意識のようなものには一種の「飛躍」が必要であることがしみじみと感じられるのである。「世間から惡人と云はれても、どんなに迫害され排斥されても、自分で斯うと信ずる事を固く守つて、死ぬまで實行し通すことが出來さへすれば、人間は何をしたつて差支はない。」これこそはテロリストの理屈ではなかろうか。しかし由太郎はこんな理屈には動かされない。別に迫害も排斥もされたいわけではないし、何かを貫こうとも思わない。
 そんな当たり前の人間の自由なふるまいは、「おしゃれ」というささやかな趣向から始まった。しかしそんなことで由太郎は友人が出来ない。仲間外れにされる。唯一近寄ってきた濵村との同性愛的な駆け引きも自然であり、何の葛藤もない。由太郎は濵村の気持ちを弄んで捨てる。

ねえ濱村さん、あなたはいくら偉がつて居らしても僕のやうな人間に會へば、一と溜りもなく負かされてしまふ、弱い、意久地のない下らない男だつたと云ふ事が、自分でも漸くお分りになつたでせう。(谷崎潤一郎『女人神聖』)

 由太郎は他に何もない代わりに顏の良さで相手を負かしたいのである。そして復讐がしたいのである。

 由太郞の理想を云へば、人間が大人になつてから、旨い物をたべたり、綺麗な着物を纒うたり、藝者買ひをしたりするのは間違つて居る。少くとも自然の意思に反いて居る。人間の心に、盛んな情熱が湧き上り、人間の肉體に、豐潤な形態美が現はれるのは、十五六歲から二十前後の時代であるから、人は宜ろしく其の時機に於いて、自由に恥に、容貌を研き美衣を飾り、戀愛の蜜をすヽるべきである。自然はその積りで他の植物や動物と同じく、人間にも靑春時代と云ふものを與へてあるのに、人間の方で、不自然不合理な社會制度を作つてしまつたのである。(谷崎潤一郎『女人神聖』)

 仮に丁稚奉公の身分にあってみれば、この不満は当然であり、そういう不満な時期を我慢してきた者にとってみれば何を好き勝手なと、子供の戯言と見做してしまいかねないが、これを書いている谷崎潤一郎が既に大人であり、旨い物をたべたり、綺麗な着物を纒うたり、藝者買ひをしたりしていることを考えると、そう馬鹿にした話でもなくなる。しかしこれもまた時代性を帯びた理想であり、今では多くの若者が「しゃぶ葉」や「サイゼリヤ」で旨いものを食べ、「GU」や古着屋できれいな着物を買い、マッチングアプリで好き放題しているのだろうから、こうした恨みを抱くのはむしろかなりの少数派であるかもしれない。だがそうしてかなりの若者が自由に享楽を得られている時代だからこそ、そこから漏れた者の恨みはより深いとも言えよう。

 旨い物をたべたり、綺麗な着物を纒うたり、藝者買ひをしたりしている谷崎が、金のなかった一高時代の時分を振り返り、その悔しさを『鬼の面』でぶちまけたのだとは思えないし、またこの『女人神聖』で「頭だけいい貧乏」と「顔だけいい貧乏」で女受けはどう違うかと思考実験をしたとも思えない。問われているのは、あくまでこの社会の在り方と人間の自然の調和である。ここにあるのは、社会が人間の自然を抑圧する制度であることなど解り切ってはいるが、では丁稚奉公やテロリストの理屈に堪えられなくて、エリートでもない人間はどう生きればいいのかという青臭い問いだ。

 由太郎はだらしのない男である。ただ「そんな奴は馬鹿だ」と排除するのではなく、むしろそこまで考えて、さあどうだ、というのが『女人神聖』の試みではないか。ではなにが『女人神聖』かといえば、「世の中に女と云ふ者がある以上は、彼の身を寄せる家は、到る所に有るやうな氣がした。」というくずの理論である。このくずの理論はなかなか厄介だ。
 大抵の人間が、おそらくテロリスト以外は、どこかでくずに堕ちる。堕ちざるを得ない。「しかたないじゃないか」と道理を欠いてうまく立ち回ってのらくら生きる者は皆等しくくずである。そんな狭量な二者択一が、不自然不合理な社会批判の書『女人神聖』からは見えてこないだろうか。

 神聖なる国家に食わしてもらえなければ、女と云ふ者に食わせてもらおうという由太郎はアンチテロリストではある。インリン・オブ・ジョイトイがエロ・テロリストならば、由太郎はハンサム・テロリストだったが、さて、下唇の皮を無慘に傷けられ、顔中にひっかき傷を作り、口の中を滅茶苦茶にされて猶ハンサム足り得たかどうか…。
 




【余談①】『女人神聖』の言葉たち

清正公 せいしょうこう 加藤清正の敬称。
家橘 かきつ

艶冶 えんや なまめいて美しいこと。
縹緻 きりょう きりょう. 顔だち。みめ。容姿。
花がるた 花札
濱町の藤間 藤間流、 日本舞踊の流派。家元の勘右衛門家
時借り 当座の用として、一時的に金などを借りること。
甚介 情欲が強く、嫉妬 (しっと) 深い性質。また、そういう男。甚助/腎助
古手 古くなった人・物。
悪口屋 よく人の悪口を言う人。 悪口言い。 悪口者。
大串
金鰐 …芸妓のことか。意味不明。
玉秀の鳥

菊水 合鴨 (・・?
難波屋の甘煮(・・?
刺がある はりがある とげがある。
はこせこ 筥迫は、江戸時代の大奥や武家の女性が、打掛を着た時に懐中に入れた紙入れの一種。お金や守り札、紅板(口紅)なども入れた。

憎体らしい にくてらしい 憎々しい。 憎らしい。
香曲(・・?
かんもの半平

招仙閣

http://www.town.oiso.kanagawa.jp/material/files/group/30/H29-2.pdf

中形の浴衣 中型紙(鯨尺3寸7分~7寸5分)によって染めた柄の名称。おもに夏用の木綿ゆかたに用いられたので,ゆかたの別名ともなった。
品川のお台場

花をひく 花札をする。遊女の働く花柳街で、彼女たちと遊ぶことを折花攀柳というがこの場合、家にこもっているので、花を攀くではないと思う。
放鳥 放生会(ほうじょうえ)や葬式の時に、供養のため、捕えておいた鳥を逃がしてやること。 はなちどり。 はなしどり。
茶献上 上等の博多織りの茶色の帯地。また、その帯。献上博多。
玲瓏 美しく照り輝くさま。
球竿

四方拝 毎年1月1日(元日)の早朝、宮中で天皇が天地四方の神祇を拝する儀式。 四方を拝し、年災消滅、五穀豊穣を祈る宮中祭祀。
音羽屋

麾く さしまねく さしずする。また、軍勢の指揮をとる旗。さしずばた。「麾下」 さしまねく。手でまねく。ふる。ふるう。
五尺 152センチ
グレービング

鳥居清長

請願巡査

薩摩原 芝区松本町

忽諸 軽んじること。ないがしろにすること。 
廓落 広大なさま。心が広く、からりとしているさま。 むなしく、ものさびしいさま。
河合継之助?

【余談②】

 谷崎作品には、これまでも同性愛的なやりとり、しかも特に同性愛をタブー視しない、両刀使い的なやり取りが現れていた。

 千葉雅也さんの「脱葛藤化」という試みそのものが殆ど意味を持たないのではないかと疑うほど、当時の谷崎作品には葛藤の気配がない。それはマゾヒズムや、女装、同性愛、被虐嗜好症…など谷崎作品に現れる性的倒錯すべてにおいて言えることだ。つまりある意味ではどうしようもない自分を責めようという構図そのものがない。
 どの要素でもいいが、それがタブーであれば、秘密のタブーを持つこと、それが露見するかもしれないと、その辱めを恐れつつも期待することがマゾヒズムの基本的な態度ではないかと思うのだが、どうも谷崎には今のところその遊びがない。
 三島由紀夫作品には明確にそれがある。川端康成作品にも。それは端的には「覗かれることの快感」として表現される筈なのだが、例えばここまで見てきた谷崎作品では艶書をただ屑籠に捨てたりして、「秘める」というプレイがない。どさんと投げ出されたようで、丁寧さに欠ける。今後はもう少し注意してもらいたいものだ。

 ※いい加減、本買ってね。困るんだよなあ、買ってくれないと。






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