近代文学1.0の終焉は、結局夏目漱石作品が解らないということに気が付かないところで訪れたものではなかろうか。文学が多少なりとも影響力を持っていた時代、という柄谷行人的区切りを置いてみた時、夏目漱石作品が解らないので「漱石をやり過ごす」「漱石に不意打ちを食らわせる」として表層批判に留まることを宣言した蓮實重彦の漱石論は、漱石のコードを無視するというやり方で夏目漱石作品が解らないという問題を回避した。
このあまりに文芸的な言葉遊びは、それが文芸批評であるかどうかは別にして、それなりに「読ませる」ものであり、誤解を恐れずに言えばある意味では面白かったと言えなくもない。それは文芸というものが基本的に遊びであり、例えば連歌や連句が先行する歌や句の意味を正確に理解していなくてもひねることで付けられるものであるからである。批評としては頓珍漢であっても言葉遊びとしては成立する。そういう位置に蓮實重彦の漱石論はある。
悲惨なのは柄谷行人である。夏目漱石作品が解らないという問題をひっくり返して、夏目漱石作品に「主題の分裂」「失敗」「制御しきれないもの」を見出してしまう。「制御しきれないもの」に関しては柄谷行人の指摘しているところ以外で確かにある。しかし「漱石自身の自殺願望」までを見出してしまうのはさすがに無理があろう。漱石は人生は自殺するほどの価値があるものと考えていない。「主題の分裂」「失敗」に関しては例えば『行人』のあらすじを確認するだけでも間違いだと言えるであろう。
いずれにせよこの二人には漱石をうんぬんできるほどの国語力がそもそもない。正しく読めないで批評も何もないものだ。
残念ながら江藤淳も夏目漱石作品が解らないという問題と正面から向き合うことができなかった。「私」は先生になんとなく惹かれると書いてしまう。
しかし不思議なことに江藤淳の書いているものはそれなりに面白いのだ。間違っているのに面白いという、まさに文芸的な魅力が江藤淳の漱石論にはあると言ってよいだろう。
そして肝心の芥川龍之介だが、結局夏目漱石作品が解らないという問題に突き当たっていないのではないかと現時点で私は考えている。谷崎潤一郎はある意味で夏目漱石作品が解らないという問題に突き当たっている。それがために『道草』や『明暗』を退屈だと否定した。
要するに『道草』や『明暗』の面白さに辿り着けなかったのである。
その点芥川は、具体的なことは書かないし、わかったふりをしている。
その作品を具体的などう見ていたかについては、断片的な情報しか残っていない。
ここでは漱石の『夢十夜』は夢に仮託した作品だという解釈を示している。だがそれが良いとも悪いとも書かない。
ここでは『硝子戸の中』を誉めている。しかし具体的なことは何も書いていない。
ここでは敢えて自分は夏目漱石作品の弟子ではなく夏目漱石という「気違ひじみた天才」の弟子だとでもいいたげだ。
これも夏目漱石作品の評ではない。漱石の講演記録を見ればまさにその通りだと感心する所である。
ここでかろうじて、「先生の散文が写生文に負ふ所のある」という見立てが現れる。しかしまあ、写生文云々に関しては聊か議論の余地があろう。
そして自分の散文が子規ではなく北原白秋の強い影響下にあることを告白する。
漱石を批評家に数える。そこはよかろう。芥川は漱石の激賞で世に出たのだから。
こう書いているので、少なくとも『三四郎』と『彼岸過迄』は読んでいたことが解る。
これで『永日小品』を読んていることは解る。
これで『虞美人草』に関しては読むには読んだが大して印象に残っていないことが解る。
こうあるので『草枕』を読んでいたことまでは解る。
この書き方ではやはり『吾輩は猫である』は愛読していたとして高山樗牛の方が好きそうである。
こう書いていて否定していないので、『行人』はぼんやり読んでいたことが解る。実際その場面で下げられているのは膳ではなく下女である。ええと、はい、これ。
そんな場面はなかったと流れで記憶しているはずのところである。風呂上がりに膳を下げさせたら「お布団を敷きますねと」勘繰られそうで剣呑である。
こうして眺めていると芥川が具体的に読んだ夏目漱石作品は、『吾輩は猫である』『虞美人草』『草枕』『夢十夜』『三四郎』『永日小品』『彼岸過迄』『行人』『硝子戸の中』そしておそらくは『明暗』であり、決して批判もしない代わりに、具体的にどこがどう好いと突き詰めて語っていない。
つまりやはり結局夏目漱石作品が解らないという問題に突き当たっていないからこそ乃木大将の写真に注文を付けながら『こころ』には触れていないのではないか。
勿論芥川が生きていた時代に、『こころ』で静が生かされるという問題を掘り下げるのは剣呑なことであったかもしれない。しかし書いたのはあくまで漱石なので、そこを明らかにしたところで、芥川が引っ張られることはなかったのではないか。
つまり芥川は乃木静子の死そのものに対しては何も思っていない?
そこはあくまでも書かれていないことなので解らない。解らないけれども、『こころ』が読めていたとも確認できないのだ。
(続く)
[余談]
芥川が注文を付けている乃木大将のとぼけた写真、ここには一つレトリックがある。
つい忘れていたが太宰治が、乃木大将の片目は義眼だと書いていた。あれ、なんていう題だったか……。
これだ。芥川も漱石もそのことは知らないまま死んだ。
死んだら本は読めない。