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子規の小説

 写生文とは何かと考え続けていて、ふと子規が小説を書いていたことを思い出した。ドナルド・キーンの『正岡子規』(新潮社、2012年)によれば明治二十三年一月、子規は懸賞小説に応募するため『銀世界』を書いた。

 うーん。読めない。その外にこのような作がある。

 うーん。読めることは読めるが、子規の俳句のレベルを鑑みると、ん、とひっかかる。残念ながらその仕上がりはなかなか評価が難しい。ストレートに言えば、革新性に乏しく、少々軽い。キーンによれば露伴の『風流佛』の影響下で『月の都』を書いた子規は、露伴のところに原稿を持参し、作品を読んで批評を貰いたいと頼んだ。しかし露伴は客がいるとしてその場では原稿を読まず、二日後使いの者に原稿を返却させた。露伴は批判的なことは書かなかったが、子規は絶望し、小説家になる事を諦めた、という。

 このキーンの説をとると、子規は露伴に対してかなり下手に出ている格好になる。そして露伴は子規と直接の関係を持たなかったように書かれているのだが……。

 そこで私は面食らう。既に書いたように、薄田泣菫によれば、

 今はもう古い往時談の一になつて了つてゐるが、鷗外森林太郞博士の禿げた頭に、黑い美しい髪の毛が載かつてゐた頃、博士の千駄木町の二階の一室に、幸田露伴、齋藤綠雨、正岡子規などといふ人達が集まって、文章を書いたり、氣焰を吐き合つたりして夜を更かしてゐたことがあつた。

 これは十分仲良しサークルではなかろうか。薄田泣菫の説を信じれば、漱石を交えずに、鴎外、露伴と子規は直接面識があったということになる。しかも鼻くそ飛ばしをしていることから、親分肌の子規はそこでも威張っていたのであろうということが推測される。

 このあたりの経緯、事実関係を夏目漱石が何処迄正確に、つまり誰かの一方的な情報に惑わされることなく客観的に知っていたのかは分からない。しかしこのことと夏目漱石が俳句から小説に向かう理由は、事実として因果を持たないだろう。

 夏目漱石は子規の敵討ちがしたかったわけでもなく、俳句から離れることで子規を裏切ったわけでもないことは誰の目にも明らかだろう。いや、この人は別か。

 何しろ漱石が『吾輩は猫である』を書いたのは、明治三十七年の暮れ、子規に十四年も遅れてのことである。

 そして勿論結果として残された子規の小説は写生文ではない。写生文のアイデアが生まれる前に書かれているからだ。(※作者不詳ながら子規全集にはそれなりにおもしろい小説のようなものが収載されているが、新聞あてに投稿された原稿が混じったものかも知れない。)

 一かたまりの雲は天の一方からはびこつて來て今しも吾顏の眞上にさしかゝつた。小田等の一行が平壤のいくさを見るために山の半腹に日覆ひをしながら其陰に這入つて往たら其日覆ひを目あてに敵が大砲を撃つたさうだ。『月見草』

 夏目漱石作品という途轍もないものを読んでしまった後では、大抵の作家の作品に物足らないものを感じてしまうのは仕方のないことだが、それにしても子規の地肩の強さに幸田露伴が気付き、「あれ、この男、いささかあれだが、何かあるぞ」と見抜いていたら、そして漱石より十数年早く正岡子規が幸田露伴門下に這入っていたとしたら、あの夏目漱石作品が全部消えてしまっていたんじゃないかと思いぞっとする。

 確かに子規の小説はまだまだ「一読大感激」というものではないにせよ、言葉は確かで、見方によれば地力というものを感じられないわけではないのだ。出来上がってはいないし、当時の露伴の作と比べるべくもないが、全く箸にも棒にもかからないというよりは、評価には当たらないとしても、どこかに底力を発見されても可笑しくないものなのだ。いや、これは決して控えめな言い方ではない。運が悪ければ子規の小説は幸田露伴に絶賛されかねないのだ。

 なんだかひやひやする。確かに夏目漱石という小説家が生まれ、正岡子規という小説家がが生まれず、幸田露伴が泰然として小説家であり続けていたことは間違いないのだが、そんなものが全部消えてしまっていたのではないかと思えばひやひやする。

 漱石に限らず明治の文豪は想像を絶するほどインテリだが、露伴の門下に漱石が連なれば、その突き上げ感は物凄いだろうと思う。

 それと、むしろ子規の小説が伸びていただろうとは、やはり考えにくい。常に変革を求めながら、とりあえず俳句という形式と「ホトトギス」を残したのが子規の功績で、むしろ小説を諦めたことは良かったのではなかろうか。

 正岡子規を無理に神格化する必要はあるまいという理屈の上で、子規の小説はまだ未来を捉えていない。幸田露伴が正岡子規の底力に気が付かなかったことはむしろ文学史上の幸運である。

 腕を宙に浮かし続けるには背筋力が不可欠である。短詩形ならそうでもなかろうが、長文を書くには背筋力が必要だ。器械体操の名手であった漱石はおそらく体幹が鍛えられていたことだろう。子規にはその膂力がなかったのではないか。




[余談]

 槌田満文の『明治大正風俗語典』(角川選書 1979年)を読むと、明治十年代というのはまだまだ江戸時代だったことが解る。

 その天保錢一枚の餅は非常に賣れた。私は丁度その頃、十一位の子僧姿で、よく立留つては、指を啣へて、人々のそれを買ふのをじつと見てゐた。それにしてもなつかしい天保錢!あの小判形の大きな天保錢!(田山花袋『東京の三十年』著博文館 1917年)
明治の初め數年に於ける通貨は昔の儘で、一文錢に天保錢、一朱銀に一分銀、二朱金に二分金と云ふ樣な數種で、九十六文を以て百とし、六貫六百が壹両である。二八うどんは其頃、大橋の坂を下つた突當りにあつた海道評判の安賣り店で、天保錢一枚で、山盛うどんが六パイと云ふのだから、今から思へば噓の樣な事である。(『今昔俺らが魚がし』豊橋魚市場 1935年)

 なるほどこれでは江戸である。天保銭が通用しなくなるのが明治二十五年。民法の公布も明治三十一年。予戒令が明治二十五年。やはり大づかみに憲法発布以前の明治は江戸時代のようなものである。

[余談②]

小説に言文一致体が採用されたパーセンテージは、明治三十八年度が七八パーセント、三十九年度が九一パーセント、四十年度が九八パーセントであった。(山本正秀『開化期の文体をめぐって』昭和39年)

 引き続き槌田満文の『明治大正風俗語典』(角川選書 1979年)よりの孫引きである。この数字を見るとまさに夏目漱石が活動を始める時期に、一気に言文一致が加速したように思われる。この感覚、この時代の当事者にとってはいかなるものであっただろう?

 『吾輩は猫である』『倫敦塔』『 幻影の盾(まぼろしのたて)』『琴のそら音』『一夜』『薤露行(かいろこう)』と明治三十八年の作を見ていくと西洋の翻案ものが文語調で、現代ものが言文一致である。翌年の『趣味の遺伝』がややまだ固いが、『坊っちゃん』でほぼ今の我々に読みやすい言文一致になったかと思いきや、これが『虞美人草』や『草枕』では美文調にもなり、一作ごとに文体が練られていくことになる。このあたりが当時者性というものか。







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