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写生文とは何か⑦ 「則天去私」の感じとロジック


一人居や思ふことなき三ケ日

 この漱石の句に対して、

蓬里雨 是は大正元年の句だつたと思ふ。とにかく先生の修善寺大病後の作である。大病以後の先生の心持は段段人間から自然の方へと向いて行つた。その心持の向き方が此句には出てゐる。
寅日子 「則天去私」ですか。
蓬里雨 さうです。此句は晩年先生の口にして居られた「則天去私」の方向へ段段先生の心が向いてゐる事を指示する句だと思ひます。(『漱石俳句研究』寺田寅彦 等著岩波書店 1925年)

 ……と、小宮豊隆と寺田寅彦の間で交わされる批評の中である「感じ」と一つのロジックが浮かび上がる。

 まずこの句は「お正月に三日間一人でいて寂しい」という句ではない。ここに小宮(蓬里雨)は「人間から自然の方へと向いて行く感じ」をつかみ取る。自然とは一言も詠まれていないが、人恋しくないので人間から離れているという理屈である。その向かう先は自然と見ている。そしてここれを「則天去私」の方向性と見做すことで、小宮豊隆にとっての「則天去私」の「天」は「自然」の意だというロジックが浮かび上がる。

人に死し鶴に生れて冴返る

 この句に対しては、

東洋城 天地の風物はしかと春色が動いてゐるに拘らず此めつきり立返つての寒さにきりりと氣の引しまる感じがする。是が冴返るである。かういふ春さきの長閑なしかし肅たる感じを作者が體したのに此句は始まつてゐる。此感じに立つて作者の理想が流れ出てゐる。次の世には牛に生れるとか馬に生れるとかいふ佛說の因果應報話などの聯想から「鶴に生れる」といふやうなこともさう突飛でなく聞かれるし、鶴といふものが目出度い高尙清潔な感じのものだから、人に死んで鶴に生れるといふのは極氣持のよい高潔な感じを與へられる。要するに、人としては死んでつてさて鶴として新に生まれるといふ空想上の美しさに憧憬するのである。この句の場合では人としては死んだがやつとまあ鶴位には生れ得たといふのではなくて、人として死んだがよりよく鶴に生れたといふ位にいい氣持なのである。人に死し鶴に生れといふ所に應報といふ程ではないが一種の因果の樣なものがあるやうに思はれる-何だかその死んだ人の人格を因とし生れた鶴の屬性美を果としたやうに。(『漱石俳句研究』寺田寅彦 等著岩波書店 1925年)

 ……と、まずは松根東洋城が口火を切り、人は不純だという小宮に対して、東洋城は、

人と鶴との純不純の反對律が冴返るに合ふのではなくて、今まさに此あたたかい人間の血の囘つてゐる自分が突として戶外のあの雪白な鶴になつたと思ふことにより、その立場の置換の激烈なのに急に冴返る心持になるのだ。(『漱石俳句研究』寺田寅彦 等著岩波書店 1925年)

 ……と、まるで「生きたままの生まれ変わり」のようなことを云いだす。この場面での東洋城はずいぶん張り切っている。しかもキレッキレである。

これを、

寅日子 此句は作者が實物の鶴に對しての心持と解釋すべきものか、それとも頭の中の鶴と見た方がいいが、どつちだらう。事によると先生自身の希望を表はしたものではあるまいか。(『漱石俳句研究』寺田寅彦 等著岩波書店 1925年)

……と、寺田寅彦が受ける。ここでまた小宮豊隆が、

蓬里雨 私は鶴は作者の眼前にあるのではなくて作者の頭の中にあるのだと思ひます。希望と云つてもいいかも知れないが、此心持は後の「則天去私」に通ふ、Pureなものに對する先生の憧憬が出てゐるものとも見れば見られると思ひます。(『漱石俳句研究』寺田寅彦 等著岩波書店 1925年)

 ……と「則天去私」を持ちだして、小宮豊隆にとっての「則天去私」の「天」は「Pureなもの」の意だというロジックが浮かび上がる。

東洋城 鶴は眼前だとか頭の中に在るとかいふ議論があつたが、私はいつそ直に、吾輩は鶴であるといつて了ひたい。人に死しの人は過去で鶴に生れての鶴は現在である。現在鶴なのである。鶴が、鶴である私が冴返つてゐる、冴返る中に自分は鶴なのである、といふ句だと思ふ。(『漱石俳句研究』寺田寅彦 等著岩波書店 1925年)

 議論はかみ合わないが寅彦が希望かと云い、小宮が憧憬かというのに対して、東洋城は現に鶴であると言いたげで、「鶴」≒「則天去私」、まだ届ぬものという小宮の「感じ」と対立している。この件に関しては「冴返る」が希望や憧憬であっては鈍るので、多数決に関わらず東洋城に分があるように思う。

 この「感じ」というものは大切だ。漱石の「文学論」は「焦点」と「感じ」から出来上がっていることを忘れてはなるまい。「感じ」とはあくまで不確かなものだ。不確かではあるが、なんでも無理に確かなものにしようとするとこんな阿呆な本が出来上がる。

 「感じ」を大切にしないとロジックも見えない。特に詩においてはその傾向が甚だしい。

 朧夜や顔に似合わぬ戀もあり

 この句に「則天去私」を見出すのは松根東洋城である。

東洋城 僕の戀もあらんに感服する點は、句の中七以下の人事的の事が、此五文字の爲に一氣に人間から抛り出されて小さく小さくなり、朧夜といふ自然現象その物の偉大さが浸み渡つて來る所にある。それを私は「人間の最後のやるせなさ」といふ言葉で說明したい。矢張夫は例の「則天去私」なので、先生が晩年頻にそれを口にせられたさうだが、口にせられたのは兎に角、もうずつと以前からそれが先生の腹中であつたことを思はせられる。(『漱石俳句研究』寺田寅彦 等著岩波書店 1925年)

 東洋城の「則天去私」に違和感がないのか、ここで大きな議論にはならない。人事が小さくなり、朧夜という自然があらわれたところが「則天去私」ならば「私」は「人間」、「天」は「自然」という理屈になる。この理屈に残りの二人は反論しない。それは異論を立てるほど違和感がないということなのだろう。

寅日子 これは或は穿ちすぎると言はれるかも知れないが、僕には此句で所謂「則天去私」の私と別れた心持をよんで居るやうな氣もする。
蓬里雨 此所には暖い愛情がある。(『漱石俳句研究』寺田寅彦 等著岩波書店 1925年)

 寺田寅彦から「則天去私」の言葉を引き出したのは、

別るるや夢一筋の天の川

 ……という句である。この句は修善寺に一緒に行き、ずっと看病していた東洋城を念頭に置いたかのような句なので、私と別れると言いながら、東洋城を離れて消えていくという句と私には解釈できる。と、いきなり私の解釈を入れて申し訳ないが、ここで小宮や寅彦の間で漱石の取り合いにならないのは、彼らにとって結局東洋城は所詮人間で、漱石は天の川だからである。

 その点だけは納得させられていたようで、「別るる」と言われながら小宮は「此所には暖い愛情がある。」と拝んでしまっている。これはいけない。流石は神主ではあるが、これではロジックが出てこない。

 しかしこうしてみていくと東洋城の現に鶴であるという感じを引き出した

人に死し鶴に生れて冴返る

 この句、この句の「冴返る」に「則天去私」のモデルが現れているように思う。めっかちを気にしないのだからぼんやりしたもの、というわけでもなく、「冴返る」と表現されるくらいくっきりとしたもの、そんなものが愛弟子たちの間に引き渡されて居るように私には思える。

 そして改めて、俳味のないところには大俳諧はあり得ず、写生文が大俳諧なら、そこからしか「則天去私」には接近できないように思えてくる。

 少し理屈を言えば「人に死し鶴に生れて冴返る」をそのまま小説にしてしまうと、単なるアレゴリー、寓意小説に落ちてしまいかねない。これは俳句だからきりりとしているので、引き延ばしても大俳諧にはならない。

 ここに大いに壁があり、同時にヒントもあるように思える。ただ急ぎすぎないように、ここで一旦止めよう。

[余談]

 お坊ちゃんで才気煥発の東洋城、おっとり刀で遠慮のない寅彦、愛されキャラの小宮らがこうして仲良く漱石の俳句を論じているさまは、実に美しい。

 夏目漱石という偉大な師の魅力の一部にこうした弟子たちの存在があることは否定できない。夏目漱石個人が宇宙にポツンと浮かんでいても『吾輩は猫である』や『三四郎』は書くことは出来ないのだ。弟子たちは作家夏目漱石の「私」に食い込む切り離せない要素だ。

 そうした人とのつながりも夏目漱石の人柄がもたらしたものであり、素晴らしい弟子たちとの出会いも偶然とは思えない。それにしてもこんな関係は外の作家ではありえないのではなかろうか。

 俳句好きの人は、こちらからどうぞ。









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