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芥川龍之介の俳句をどう読むか190 ここまでのまとめのようなもの②

青蛙おのれもペンキぬりたてか

 そもそもこの句が北原白秋、飯田蛇笏、佐藤惣之助という錚々たる詩人たちのなかで「雨蛙汝もペンキ塗りたてか」「青蛙汝もペンキ塗りたてか」「青蛙おまへもペンキ塗りたてか」と様々に記憶されてい混乱から俳句の読みを確認する作業が始まった。
 今のところこの句がルナール『博物誌』が元ネタであるというのは眉唾であると考えており、

①ペンキ塗りたてのようにしっとりしている
②ペンキ塗りたてのように色鮮やか

 と解釈が分かれているが、私は両方だと考えている。

 そして北原白秋の言う通り、思いがけず子供のような表現が出た句だと見做している。まあ、湿っているか、色鮮やかなのか、子供のように素直なのかは「あなたの感想」の部類なのでどうでもいいと言えば、どうでもいいことだ。しかしどうでもよくないこともある。

明星のちろりに響けほととぎす

 この句は芥川の説明によって「ちろり」が「銚」という意味に固定されてしまい、かえって何のことかわからない句になってしまっている。ルナール『博物誌』の件にしても、件の『奉教人の死』のドタバタ騒ぎを思えば当然ひっかけであり得るし、「ちろり」が「銚」という説明もそのまま額面通り受け止めるわけにはいかないだろう。

 元ネタがあると書いて、実はなかったと欺いて、本当はあったのに最後まで種明かしをしないというひねくれものも、天性の詩人北原白秋の前では丸裸だ。この「ちろり」は確かに「銚」という意味で詠まれているものの、明星のちろりとなると確かに別の意味もかかっている。

 芥川の句を理解するには馬鹿真面目ではいけない。悪戯小僧の句だと思って読まなくてはならない。この「ちろり」には俗謡の「ちろりちろり」がかかっている。これは「あなたの感想」ではないところの解釈に当たるだろう。

野茨にからまる萩のさかり哉

 芥川のひねくれぶりはこんな句にも現れている。普通は萩に野茨が絡みつくであろう。そこを逆に野茨に萩が絡まると詠む。まさにさかっている。

 そして芥川の句は多くが無言の鑑賞にさらされている。「あなたの感想」というものはそれ自体すべて無意味というわけではない。「ははーん、ここをこう読み違うているのか」と気がつ付くヒントになる。多くの芥川の句は読み誤られていて、堂々と「説明」してしまっている人の殆どが間違えている。間違いがあると、こうですよと記事が書ける。おそらく比較してもらえばどちらが正しいかわかるはずだし、何もないところから句を眺めるよりも間違った説明の間違いを確認したほうがよりくっきりと意味が捉えられるはずだ。

午もはやするめ燒かせよ藤の花

 これなどは秀句でもなんでもないと思う。のでぱす。

鉄条(ゼンマイ)に似て蝶の舌暑さかな

 萩原朔太郎は褒めないが、この句は秀句だとされている。しかし詠まれている内容の解釈が分かれている。

・吸収口を伸ばして花の蜜を吸っている
・吸収口を伸ばしたり丸めたりしている

 私はこう考える。

 伸ばした状態の吸収口はゼンマイには見えない。見えているのが動きならば

蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな

 この比喩は間違い。
 しかし吸収口は吸っている間は伸ばしきり、移動の際に丸まるので、動きそのもので見れば花から花へ移動する際の羽ばたきこそが忙しなかろう。
 となれば、これはひらひらと飛ぶ季語としての蝶ではなく、夏の暑さで死に、既に季語ではなくなった蝶の丸まったままの吸収口なのではなかろうか。一方の季語を殺さなくては、この句は成立しない。一羽の蝶の死をいけにえにこの句はこっそり成り立つ。

 この句の解釈から「季語殺し」という芥川のレトリックが発見できた。後に既に芭蕉も子規も同じように複数の季語の中の一つを殺して、句を詠んでいることが確認できた。何でも確認というのは大切だ。

癆咳の頬美しや冬帽子

 この句は歴史的なねじれが現代ではわからなくなっている句だ。今はこれが、飯田蛇笏の

死病得て爪美しき火桶かな

 という句にインスパイアされて詠んだ句だとされているが、芥川は蛇笏の句を

死病得て爪美しき火鉢かな

 だと記憶しており、その間違いに死ぬまで気がつかなくて、昭和十一年に芥川の原稿が勝手に火鉢から火桶に直されているというわけである。

 些細なことのようだが、事程左様に原稿というのは死後さらっといじられてしまうものなのだ。こういうことはよく調べるとほかにもあるかもしれない。いやきっとあるだろう。

白桃や莟うるめる枝の反り

 この句は解釈が分かれ、飯田蛇笏は

白桃や莟うるめる立ち枝かな

 にしてしまい、室生犀星は、

白桃や莟うるめる枝のなり

 にしてしまう。ペンキ塗りたて状態である。

 白桃の花が咲くのは春、実るのは夏である。白桃は七月ごろから出荷される。この句にこうして「古雛」「剪りきりたるひと枝」と添えられていることから、莟は花の莟であり、果実ではないことが解る。しかし莟は果実のように膨らみ、枝はことさら自慢でもするかのように反らせていたのであろう。

 この枝の反りという誇張法がこの句の味わいなのではないか。いや、これは活花の「反り」だ。

茶畠に入日しづもる在所かな

 この句は「茶畠に入日しずめり、在所かな」と多くの人が解釈しているようだ。「茶畠に入日、しづもる在所かな」つまり茶畑に日が暮れて、田舎の村落が静かになっていくことだなあ、というような意味になろうか。入り日がじりじり音を立てていたわけではなかろう。

 この句の解釈などは「しづもる」の意味を辞書で引けば明らかである。単に辞書を引く習慣のない変な人がたくさんいて、適当に自分の感覚で読んでいるからおかしなことになる。自分の感覚なんてものは所詮大したものではないと考えて、辞書を引く習慣をつけた方がいい。

 手遅れになる前に。


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