「意識高い」
「鳥海って意識高いよな」
これは、大学時代に気の知れた友人に言われた言葉だ。
「意識高い」
皮肉を込めて使われることが多い言葉だ。
でも、僕にとってはとても嬉しい言葉だった。
◇◇◇
一般的には、あまり嬉しい言葉ではないだろう。
でも、「意識高い」と言われるということは、「その人は持っていない意識を持ち合わせている」とポジティブにとらえることができる。
内面をしっかり見てから言ってもらえる「意識高い」は、さらに嬉しい。
それは、嫉妬されるほど熱を持って何かに打ち込めている、という証明だと思っている。
実際、僕は何回か「意識高い」と言われたことがあるが、そのとき同時に夢や目標、熱意についての相談を受けることが多かった。
◇◇◇
「意識高い」という言葉が出てくる深層心理はどんなものなのか。
僕も、とある光景を見て「意識高い系だ」と反射的に思ったことがある。
それは、受験期に高校の机の上に教材を山のように積み上げて勉強している受験生を見たときだ。
あまり思い出したくはないが、当時の気持ちをさらけ出してみようと思う。
「頑張ってるアピールですかw」
「きっと裏ではやってないんだろうなあw」
これが受験で心の荒んだ、若かりし日の僕の心の内だ。
今、似たような光景に出くわしてもこんなことは思わないだろう。
では、なぜこのときこんな感情を抱いたのだろうか。
それはきっと、自分の心を守るためだった。
その受験生を見て、僕はきっと焦ったのだろう。
当時の僕は勉強に身が入っていなかった。
名も知らぬ受験生が、実際どれくらい頑張っていたか僕にはわからない。
しかし、僕はたしかに「頑張る」ことのできる彼をうらやましく思っていた。
この経験から、「意識高い」という言葉には少なからず「羨ましい」という感情が混ざっていると考えている。
◇◇◇
受験生という「他人」と僕という「自己」では相違点がある。
受験生が熱意を持っているフリをしていたのかはわからないが、僕の熱意が本物だということは自分が一番知っている。
ただ、これではまだ主観的な評価だ。
客観的にみたら、僕の熱意なんて誰でも持っているレベルのものかもしれない。
しかし、
「意識高い」
そう言われることで、客観的に自分の熱意のレベルが証明される。
取り繕うことなく見せている自分の熱意は、だれかに「羨ましい」と思ってもらえるくらいの熱は帯びているのだ。
「意識高い」=「羨ましい」という前提は、僕の経験から感じ取ったものなので、これが正しいかどうかはわからない。
しかし、自分の中でそう思うことは自由だ。
僕は勝手にこう考えて、勝手に嬉しくなっている。
嬉しいから、もっと熱意をもって取り組もうと思う。
なんとも自分に都合のいい解釈だが、こういった都合のいい解釈の積み重ねで自分を鼓舞している。
他人に押し付けたりしなければ、自分がどう考えようが自由だ。
そんな自由な発想を、もっとnoteで発信していきたい。
きっと今後も、僕のnoteでは論理が微妙なものがたくさんでてくるし、正しさを証明するような文章もあまり書かないと思う。
「ここは考え方が違うなあ」
といった疑いの気持ちを持ちつつ、今後も読んでいただければ嬉しい。
そして、使えると思った考え方、共感できると思った考え方は存分に使い倒してもらえれば、それはとても幸せなことである。
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