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2024年映画感想No.14 関心領域(原題『The Zone of Interest』) ※ネタバレあり

保たれる"普通"の異常さ

109シネマズ川崎にて鑑賞。
冒頭のピクニックがどこにでもあるのどかな家族の光景だからこそ、のちにその家族がアウシュビッツのすぐ隣で生活している所長一家だとわかると見えていた"普通"の異常さにより大きなショックがある。誕生日を祝ったり、子供を学校に送り出したり、ガーデニングを楽しんだり庭のプールで遊んだりと、平凡で豊かな家族の幸福が描かれるほどにすぐ隣にある残酷な現実に無自覚なことのおぞましさもより際立つような描かれ方になっていると思う。

「無関心」を浮かび上がらせる演出の鋭さ

壁の向こう側に無関心な一家の在り方を視覚的、聴覚的に示すような演出が印象的だった。
映画内では常に収容所内の音が一家の生活のバックに鳴り続けているのだけど、だからこそその普通ではない生活音に対して全く意に介さない家族の様子が異常な日常に順応しきっていることの怖さを浮かび上がらせる。不意に響いた銃声や叫び声に会話している人物が反応を示したかのような瞬間が何度もあるのだけど、そのどれもが実は全く関係のない音を聞いていただけという場面になっていて完全に起きていることへの感受性がオフになっていることにゾッとさせられる。
また冒頭から画面の一部が隠れるような画面設計が繰り返されるところにも家族の盲目的な世界の認識が象徴されているように感じる。部屋のドア越しに切り取られる室内のカットやレースカーテンで外が見えない部屋の中、高い草に見え隠れする強制労働者たちなど、一家が不都合な現実を遮蔽することで居心地の良い世界を生きているということを観客に意識させるような撮影が心に残った。
世界の表面と裏面をひっくり返すようなカメラの切り返しの使い方も見事。彼らの見ているもの、見ていないものの切り取り方が映画的で鋭い。

正気を保つための思考停止

自分たちが加担している非人道性に対してこの家族がどう正気を保っているのか、というおぞましいメカニズムが少しずつ見えてくる演出の積み重ねも丁寧で切れ味鋭い。
所長であるヘスは「仕事」として取り組む事で自分の加担している残酷な現実を目の前の日常として消化している。組織の人間であり一家の長でもある彼には戦争犯罪を顧みている暇はなく、仕事として本質を歪める事でそれはあくまで生活の一部になっている。描かれるのはまるで組織と家庭の板挟みになるサラリーマンの物語のようであり、彼にとって虐殺は生活の基盤であるということは彼が自宅の植物に肥料として焼いたユダヤ人の灰を撒いていることにも表れているように思う。
一方で焼却炉の煙から目を背ける描写があるように、そこで起きていること、自分たちのしていることの残酷さに意識的に向き合わないようにしているかのような瞬間も見つけることができる。灰が流れてきた川から子供達を引き上げる一連の場面ではことの情けない顛末も含めて彼の日常がぐらついたかのような印象があるし、豊かな暮らしにしがみつこうとする妻との会話では自分の置かれている不条理な状況を思うことで翻って「自分さえ良ければいい」という論理の異常さを見つめているようにも映る。
街の楽団の演奏を聴いている傷痍軍人たちの虚しい光景や、終盤の空虚なパーティの中でまるで自分の役割に自閉しようとしているかのような会話など、正気を保つための思考停止が破綻しそうになる瞬間の積み重ねがラストの吐きながら自分たちの犯してきた残酷な罪を幻視する場面に繋がっているように感じた。

自分に都合の良い残酷さに順応する悍ましさ

ヘスの妻はより自己都合のために他者の都合を想像しないようにしている人物であり、完全に自己正当化された価値観の内側に閉じこもっている。
残酷な行為によって手に入れた自分たちの人生を「ドイツ人としての理想の生活」と表現するのは凄まじい皮肉だと思うのだけど、その根本からズレている認識の悍ましさにゾッとする。
完全に人としての真っ当な想像力や良心を失っている彼女の話の通じない様子にずっと絶望的な気持ちにさせられる。そうやって自分は正しいと思い込もうとしている彼女は、残酷な現実に関心を向けた母親からの置き手紙をこっそり燃やす。そうやって真実を黙殺して自分にとって都合の良い残酷さに順応してきたのだと思う。

闇の中に存在する人間の尊厳

そういう主人公家族の「目に入らない」という思考停止の外側にある「人間の尊厳」を最も象徴するものとして暗視カメラ風の撮影で映し出される少女の姿があるように思う。
強制労働者たちのために密かに食糧を隠す少女の良心は、ヘス家族の目から見えない闇の中に闇の中に存在している。残酷の世界に残された「人間らしさ」という希望を映画を通じて観客だけが見つめている。
序盤に所長親子が乗る馬が労働者の近くを通る時に道に落ちているリンゴを踏み潰すカットがさりげなく挟み込まれるのだけど、思い返すとそこにある無関心さにはより深い象徴性が込められていたように感じられる。

観ている側の「関心領域」の再提示

ラストに所長のヘスが観る幻視は、人間の良心を信じる作り手の最後の抵抗のようでも、残酷な歴史への映画からの非難のようでもある。
それと同時にこの映画自体が「ホロコースト」という歴史認識を反転的に描いていた内容であることを改めて再認識させる仕掛けでもあり、「ホロコーストを考えるときに"加害者になることの恐ろしさ"にどれだけ意識的でしたか?」という観客側の「関心の領域」も揺さぶってみせるような演出に背筋がゾクっとした。
現在のホロコースト博物館を綺麗にする人々の姿は、「今でもその罪は人類史レベルで引き継がれている」とヘスに突きつけるようでもある一方で、ある意味で起きた出来事が歴史となってどんどん遠ざかっていく時代を映しているようにも感じられる。博物館の展示と「そこで何が起きていたのか」という真実には本当の意味では関心の断絶があるように思うし(もちろん「真実を理解する」ということの難しさ、不可能性はプロセスに関わらず常に存在するとも思う)、それはすなわち被害の残酷さを伝える展示の向こう側には同じだけそれを引き起こしたのもまた僕たちのような普通の人だという事実が存在しているということへの多角的な想像力を改めて提示しているように感じられた。
映画という物語を観ている間はある意味で現実に無関心になってしまうように、現代から過去の起きた出来事に関心を向けることもまたとても意識的で想像力が必要な作業であり、その「関心の領域」を再提示することが「まだ映画を観ただけ」という観客に簡単に理解した気にさせないための作り手からの誠実な警告のようにも思えた。

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