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2023年映画感想No.22:逆転のトライアングル(原題『Triangle of Sadness』)※ネタバレあり

ド直球の悪意で描かれる社会風刺

ギャガ試写室にて鑑賞。
冒頭のブランドイメージを巡る会話から「人間の作る価値観って面白いですよねえ」というゴリゴリの皮肉が込められていて超絶意地悪な資本主義批評になっている。実態のない価値観に振り回されるカールという青年の視点から社会の「持つもの」「持たざる者」を隔てる価値観の本質的な空虚さとそれに従属して優劣を争うことしかできない小さな人間たちの狂騒を冷ややかに見つめるブラックコメディ。
どいつもこいつも空っぽのバカ!みたいなど直球の悪意で描かれる社会風刺なのだけど、なによりそれを描き出す一つ一つの場面が圧倒的に面白くて本当に素晴らしい。ブラックユーモアでぶん殴るような楽しさの映画で、真面目な話ほどユーモアを手放さずに描く作家はとても強いと思う。

カールとヤヤ~弱者を搾取する強者の論理

一幕目冒頭のショーの場面でさんざっぱらカール青年の不当な扱いを見せた後にショーで大写しになる「Everybody's equal(みんな平等)」という美辞麗句が皮肉で笑える。そういう欺瞞についての話ですよ、という導入としてとてもわかりやすいし、そのままそのショーで喝采を浴びていたヤヤという女性とカールのディナーの場面に映ることでその象徴としての格差カップルという構図も飲み込みやすくなっている。
第一章の「カールとヤヤ」ではある男女の利害の一致で成り立っている関係性を通じて強者の論理が弱者を搾取するという社会の在り方を「二人」という最小単位の社会構成から切り取る。
まずレストランの会計のやりとりにおけるカールの器のちっちゃい主張が本当にしょうもないのだけど、一方のヤヤも第一印象から明らかに不誠実な人間に見える。自分に惚れてる男を都合良く扱ってるだけの女性に対して正論言っても意味ないだろうと思うのだけど、カールはとにかくそこをハッキリさせることにこだわっていて本当に哀れだなと思う。
対等が良い、と主張するのは常に弱い立場の人間であり、結局は強者の手のひらの上で踊らせてもらうことしかできない。ヤヤから観たカールは明らかに代替可能な存在であり、カールは顔を真っ赤にしてそうではないことを証明しようとしているのだけどバカバカしいくらい相手にされない様子がどこまでも滑稽で空虚に映る。
閉まりかけるエレベーターのドアをガシャンガシャンしながら怒り続ける場面やワイパーの音がギュムギュムいう車内で議論しようとするタクシーの場面など観客にノイズを与える演出がこの二人の会話は本質的なところでは成り立ってないような印象を生み出している。
カールは結局惚れた弱みから情けなくヤヤにへりくだるのだけど、彼が中々消せなかった部屋の照明の前に戻ってきたヤヤが腰掛けるところなど「コントロールできないものをコントロールしようとしている」というナンセンスを象徴的な演出がより際立たせている。常に映画的な演出を手放さずに場面を見せようとする手腕は流石のリューペン・オストルンドで、建前に満ちた会話の後ろ側にある関係性が演出から浮かび上がるような手触りが面白い。

格差社会の象徴としての船

二幕目のクルーズのパートはさらにそれを広げて一つの社会構造として航海に出たクルーザー客船の人間たちを映す。上流階級から客室乗務員、メイド、クルーと船内の社会階層の示し方から見事で、会話と立ち位置だけでそれぞれの人々が資本主義的豊かさとどのくらいの距離にあるのかがしっかりと描かれている。
常に「上から下」という力学で権力者たちの我儘が弱い立場の人たちに皺寄せされる様が映し出されていくのだけど、そういう無理によって歪んだ社会秩序が可逆性を越えた先に因果応報的なカタストロフが起きる。これがもう他の映画では観たことないレベルで文字通り全てをひっくり返していく超弩級のブラックユーモアで終始大爆笑してしまった。

数字というアイデンティティの空虚さ

インフルエンサーや武器商人、クソ売りなど数字を生み出すコンテンツの話題が繰り返されるのも面白い。数字という代替可能な価値だけがアイデンティティになっている人々の空虚さがあり、よくわからない錬金術の気味の悪い論理を皮肉たっぷりに描き出す。
食べもしない食事の写真をあげ、虚飾で着飾って数字を稼ぐことに囚われているインフルエンサーのヤヤを縁の下で支えるだけのカールは成功者たちの話を聞きながら自分の何者でもなさを突きつけられるようなのだけど、とはいえ成功した人たちの人生が金や権力を使う以外何の意義も持たない空っぽさであるということがそもそもの競争自体のバカバカしさを際立てている。
自分たちさえ良ければ他の人たちの人生なんて知ったこっちゃないという想像力の欠落した社会的成功の究極形が武器承認の老夫婦であり、そういう無関心の残酷さが彼らの滅亡のロジックの一つとして因果応報的に跳ね返ってくるのが痛快だった。

価値観が転覆しても変わらず存在する社会の格差

三幕目の島では文字通りそれまでの社会階層をひっくり返して見せるのだけど、それぞれの立場が変わっただけで結局繰り返されるのは支配と搾取であり、弱い者は強い物に取り入って順応しようとし、強い者は弱い者を支配し従わせようとする。
価値観の転覆が起こったことで今まで彼らのステータスだったものは全てが無価値になるのだけど、結局全てがフラットになったところでその環境で能力的に秀でたものがその利を振り翳して権力を手に入れ、その権力を利用して私腹を肥やすという同じ事が起きる。どこまで行っても人間は平等にはならないのだけど、人間なんて一皮剥けばみな同じように醜悪で愚かで弱いじゃないかという意味ではしっかり「Everybody's equal」な話になっているのが上手い。

何者でもないカールの逆転

価値観がひっくり返ったとて自分を持たないカールは何者でもないままなのだけど、そこから逆転するきっかけとして香水を見つける場面を持ってくるのがハッとさせる伏線回収で素晴らしかった。
冒頭のオーディションでさらりと触れられる香水はカールにとって唯一の何者かになれる可能性を象徴するアイテムであり、それを振りかけることで男らしさというストロングポイントを取り戻した彼は島のヒエラルキーで支配する側に回れるようになる。実態としては彼は残酷な搾取の対象になってしまうだけなのだけど、それ自体は彼が切実に欲していた承認の回復であり、その先にヤヤとの関係における優位性までも逆転してしまう。
搾取されることを自己承認と思い込まなければアイデンティティの安定を保てない状態は悲劇的だし救いがないかもしれないけれど、確かに社会という相対的な価値基準の中で弱者として生きなければならない人物にとってはそういう拠り所がなければこの世は地獄なのだと思うと極めて人間的な立ち回りに感じる。

人間の本質を問いかける終盤の展開

平等を願っていた人間も力を手にしたら支配する側に回り、それにしがみつこうとする。結局人間は誰しもが欲望や権力に抗えない生き物であり一度享受した既得権益や豊かさの快感には危ういまでの依存性がある。
自分が持つ側の人間になったら「全員で幸せになろう」なんて理想論より「自分が一番」になる。それを醜いと言えるほど僕自身も立派な人間ではないし、誰しもそうなる可能性があることを鮮やかに風刺してみせる展開がこの映画をより素晴らしいものにしている。
人間は自分の都合のためならどこまでも残酷に、暴力的になる生き物であり、倫理というものは秩序の中でしか成立しない。そんな性悪的な結末を突きつけるラストもフィクションならではの誠実な問いのように感じる。

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