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2023年映画感想No.75:キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン(原題『Killers of the Flower Moon』) ※ネタバレあり

「終わりの始まり」から始まる物語

TOHOシネマズ六本木にて、『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』×TBSラジオ「アフター6ジャンクション2」日本最速試写会で鑑賞。
座席がまさかの最前列の右端で、未だかつて無いくらい画面が斜めだった。字幕読むのも映像観るのもいちいち大変で観終わると眼精疲労で頭が痛くなった。

白人たちの迫害により黄昏に瀕した自分達の文化を嘆くオセージ族たちの描写で映画が始まり、そこから不毛な保留地に石油が吹き出すことで彼らの状況が好転したことを見せる演出がとても映画的でワクワクする。
静と動の対比的な見せ方によって「物語が始まった」という祝祭感たっぷりの演出が際立っているのだけど、観終わって振り返ると冒頭の儀式も石油の噴出も「終わりの始まり」についての描写だったことがわかるのが味わい深い。全てを奪って追いやった土地から石油が出たことで社会的立場を逆転されるというのが白人たちの愚かさへの痛烈な皮肉になっているのだけど、同時にこれがさらなる悲劇の始まりでもあるというのが別の意味でも皮肉に映る。
オイルマネーでオセージ族は大金持ちになり白人は雇われる側になったということが実際の写真に重ねて説明されることで、実録ものという本作の背景がスマートに提示される。そしてそこから出稼ぎの労働者と一緒に電車に乗ってオセージの土地にやってくる主人公アーネストの目線になることで、まだ何も知らないという彼のフラットな立場からオセージの地を見つめる物語の予感が始まっている。

支配の隠語としての友情

叔父で有力者のヘイルはアーネストに対して「オセージ族は友人だ」と語るのだけど、その一見穏やかな態度の後ろには白人が先住民に対してしてきた迫害の歴史と演じているデ・ニーロの存在感が常に不穏な予感として響き続けている。彼のいう「良い友達」という言葉は「自分に利益をもたらす存在」という意味であり、そういう利害のためだけの酷薄な論理が見え隠れする会話がとても厭な感じで展開していく。詐欺師のようなヘイルの口車によって純粋バカなアーネストがあっという間に懐柔されるのが面白くも怖い。ヘイルが最初にいう「私のことはおじさん、もしくはキングと呼びなさい」という言葉からすでに家父長の支配が象徴されている。
ヘイルが友好関係を説明した次の場面で死体になって発見されるオセージ族の被害者たちが映されるなど「白人の穏やかな態度こそ暗に恐ろしい事態が進行していることの裏返しである」ということを緊張感たっぷりに示唆する編集にもグッと引き込まれる。本作では「友情は虐殺の隠語」だということがこの時点からしっかり描き込まれている。

愚かさを体現するディカプリオ

オセージ族の女性モリーと恋をする一方で白人側の虐殺にズブズブ加担していくアーネストはどんどんと愛情と暴力の狭間で矛盾を大きくしていく。モリーは出会った当初のアーネストを「財産目当てのコヨーテ」と表現するのだけど、モリーに対してコヨーテではないことを証明したい一方で彼はどんどん白人たちのコヨーテの論理に深入りしていく。暴力が積み重なっていくほどにアーネストの日常が破綻していくのが彼の信じる道の正しくなさを逆説しているように映る。
同時に、描写としては圧倒的にサスペンスフルで目が離せない場面の連続で、そういうわかりやすい面白さという面でも映画としてしっかり良質なのが流石のスコセッシ。
モリーとヘイルという矛盾する二つの関係に対してただただその場の状況に短絡的に順応しようとするばかりのアーネストはひたすら愚かで弱い人間なのだけど、気づけば取り返しのつかないという状況に対して自分の正しくなさと向き合えないという愚かさは決して気高くもなければ権力も持たない自分にとっても他人事ではない。
終盤についに良心側に立とうと決意したアーネストがそれでもなお孤立を恐れて権力者側の心にも無い気休めにも縋りついてしまう。人間はそうやって自分が正しいと思い込まなければ立っていられない生き物だということをこれでもかというみっともなさで体現するディカプリオが素晴らしかった。

「省みない」ことの罪

ラストにフーバーのプロパガンダを描くこの作品では最後の最後まで「省みない」というアメリカの罪について見つめていると思う。その先で、語り継がれる魂そのものである現代のオセージ族の姿を映すことで映画自体が歴史の語り部であることを宣言するように終わるのが素晴らしかった。
歴史を繰り返さないためには省みることが大切だと思うのだけど、特権意識というのは常に自己批評を遠ざける。だからこそ物語にすることで歴史の前に立ち止まって考え直すきっかけが生まれると思うし、その意味でこの作品のパワフルな素晴らしさはそのまま意義深さと直結している。

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