あなたの顔は、ブスですか?――「顔」と「自意識」についての覚書④

「顔」という不可思議、「自意識」という地獄

 前回、「顔に関する自意識にまみれている自分」=「イケメンではない」=「キモメン」と書いた。これを乱暴な理屈とすることもできるが、では「イケメン」とはなんだろうか。

 その昔、心理学の世界では、「美人」の定義を「10人に尋ねたとき、9人が『美人』と評する人」としていると読んだことがある(正確な定義かは不明だが)。そうすることで「客観性」を担保するのだ。しかし、それでは「美人」も10人に1人は「美人」だと思わないことになる。イケメンも同じ論理だとすれば、「イケメン」も10人に1人は「イケメン」だと思わないことになる。「誰もがそれと認める『イケメン』なんていない」と言われると、「まあ、そうかな」と頷くしかないので、妥当な定義かもしれない。
 が、その1人が自分自身だったら? 彼は「イケメン」なのだろうか?――「イケメンではない」という結論に、先の理屈からは至る。いや、もちろん私は「客観的な」先の定義に従えば、「10人に聞いて9人が『イケメンではない』と評される顔」だろう。ただ、それ以上に「自意識」としてどうかが、よほど大事なように思う。

 「顔」とは不可思議なものだ。何しろ「自分で自分の顔」は見えないのだ。もちろん鏡などで自分の顔を見られるが、普段生活するうえで、人からは見られているのに、自分では見えないのが「(自分の)顔」というものだ。こと「(自分の)顔」に対して、「客観性」なんて尺度は通用しない。そこに「自意識」が合わさったとき、地獄が産まれる。私は嫌いなのであまり「自らの顔」を覗くことは少ないのだが、それでも町を歩いている時、ふとした拍子にショーウィンドーや鏡に写る"ヤツ"を見てしまうと、嫌な気持ちになる。

 人は、「10人中9人が『キモメン』と評する顔」の人が、「イケメン」を自認している様を嗤うかもしれない。あるいは、「10人中9人が『イケメン』と評する顔」の人が、「キモメン」と自認していたら否定するかもしれない。しかし、実際のところ、そんなことあるだろうか。仮にあっても稀であろう。
 「自意識」とは、決して「自己」だけで築かれるものではない。特に、自らで見ることも、判断することもできない「顔」について、人は他者の視線を反映して、「自意識」を形成していく。であれば、よほど他者に無頓着な人物でもない限り、それは強がりか、謙遜か、何かでしかないだろう。少なくとも私は、「顔」と「自意識」の間で、明らかな隔絶がある人にあったことはない。自信家の「キモメン」も、自信のない「イケメン」もざらにいるが、それと「顔についての自意識」はまったく別物である。意外と「顔の自己評価(=顔の自意識)」は正確であるというのが、私の見立てだ。

 非常に矮小な意見ではあるが、肉体を鍛え上げ、割腹自殺を図った三島由紀夫も、芥川龍之介のポートレイトに憧れを持ち、『人間失格』でナルシスティックに「神様みたいないい子でした」と結んで、入水自殺した太宰治も、「顔(見た目)」および「自意識」に苛まれた人物だったのではないだろうか。

「客観なんてない」という断言の救い

 では、私や「キモメン」であるあなたは、どう生きればいいのか。「顔の良し悪しなんて、普遍的に決まったものではないのです」「人の好みはそれぞれだから、あなたの顔を好きになる人もいます」「見た目なんて大したものではないから、気にすることがバカげています」すべて正しい言葉だ。が、どうしようもなく「自意識」を持ってしまったなら、そんな綺麗な言葉で励まされるのは難しいだろう。
 太古の昔、ブッダが「解脱」を求めたのも、イエスが「隣人愛」を謳ったのも、「自意識」から脱却するための地獄からの求道だったのではないだろうか。

 あるいは下らないかもしれないが、私が「顔と自意識」から脱却するために、中学生ごろに非常に励まされたことを挙げてみたい。1つは、下記の言葉だった。

 美しい「花」がある。「花」の美しさという様なものはない。彼の「花」の観念の曖昧さに就いて頭を悩ます現代の美学者の方が、化かされているに過ぎない。肉体の動きに則って観念の動きを修正するがいい、前者の動きは後者の動きより遥かに深淵で微妙だから、彼はそう言っているのだ。(「当麻」小林秀雄)

 世阿弥に関する文章の、有名な一節だ。あるいは、学生との対話による講演録、こちらのほうがわかりやすいかもしれない。ほぼ同じことを言っているように感じる。

 君はルノワールが好きだと言っているが、ルノワールの目玉からすると、君の目玉など赤ん坊みたいなものだな。たとえば薔薇を見て、君はただ「赤い花だ」と思うだろう。しかしルノワールならば、同じ薔薇の中にどのぐらいたくさんの色を見分けているか。そういう具合に分析的に見る能力ならば、訓練で身につけられるし、訓練しなければ駄目だと思います。本を読むこともそうだ。本もたくさん読んでいけば、自ずと見えてくるものが違ってくるのです。人を見るのもそうですよ。やはり訓練や経験を積みますと、ふっとわかってきます。(「講義『文学の雑感』後の学生との対話」小林秀雄)
 無私というのは、得ようとしなければ、得られないものです。客観的と無私とは違うのです。よく、「客観的になれ」などというでしょ? 自分の主観を加えてはいけないというのだが、主観を加えないのは易しいことですよ。しかし、無私というものは、得ようと思って得なくてはならないのです。(「講義『文学の雑感』後の学生との対話」小林秀雄)

 自分の顔に悩んでいるとして、努めて「客観視」することはできるかもしれない。が、それで何が生まれるでもない。そこに醜い自分を見るだけだ。そうではなく、ひたすら「目」を鍛えること。「美」にも「醜」にも目を凝らし、目を訓練していく中で、「自意識」から脱した何かが見えてくるかもしれないと、そう思った。

「モッド・フェイス」の格好良さ

 もう1つ、中学生ごろに励まされたのは、問答無用に「格好いい」と感じた、「モッズ」というカルチャーだった。1960年前後に起こり、1980年前後にリバイバルした、イギリスのユースカルチャーだ。
 この流行文化におけるリーダー的な存在のことを、それこそ「フェイス(=顔役)」と言ったらしい。労働者階級にもかかわらず、ボタンダウンシャツにスーツを着込んで、ブラックミュージックで踊ることを愛する、享楽的な(ある種、頭の悪い)文化だ。下記のようなバンドが愛されたらしい。

(The Small Faces"Sha La La La Lee")
 (The Small Faces"All or Nothing")
(Spencer Davis Group"Gimme Some lovin'")
(The Jam"Going Underground")


 私は、ものすごく服装がダサかった(というか今でもダサい)。が、中学生の私には、とにかく彼らが楽しげで、自信に満ち、格好よく映った。同じようにワイシャツを着て、同じようにジャケットを羽織りたかった。
 それまでパーカーとジーンズ、Tシャツしか着ていなかった私は、曰く言い難い熱に浮かされ、貧しくても出来る限り近しいモノを買い求めた。着てみたら、背が低く、スタイルの悪い私には、全然似合わなかった。なのに、……誇らしい気持ちが湧いてきた。
 以来、私はYシャツばかり着て、ジャケットばかり羽織るようになった。良いのか悪いのか、それは今でもわからない。人から見て似合うのか、格好悪いのか、そんなことは関係なかった。ただただ格好いいと思ったものを、格好悪い自分であっても着ること。それだけが大切だった。
 「好きな音楽は?」と聞かれて、「モッズ」と答えたときに、理解されたことなんてほとんどない。でも、それでよかった。自分の顔は変えられなくても、自分で選んだ服を身につけられる。そのことだけが大事だった。

 人は「顔」を自分で選べない。「キモメン」である私も、もしかしたら悩んでいるあなたも、自分で自分の顔を選んだわけではない。それならせめて、自分自身の「目」を鍛え、自分自身で好きなモノを選ぶ。それが「顔と自意識」から脱却するための道である。そんな気がしてならない。(おわり)

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