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「出版社不要」論が現実に

「StayHome」「RemoteWork」で書店に人が…

 先日、平日の19時過ぎに渋谷に行った際、たまたま少し時間があったので、某大型書店に寄ってみました。

 そこで、驚いた。「人がいない……⁉」

 かなり広いワンフロアを借り切っている書店で、記憶の限りではかなり客がいるイメージだったのですが、その時はおそらく見渡しても20人くらいか。2レーンに1人くらいしか客が見当たらない状況に、ビックリしました(別の日に行った神保町の大型書店にはけっこう人がいたので、エリアでかなり差はあると思います)。

 間違いなく、新型コロナウイルスによる外出自粛や、そこに端を発するリモートワークの普及の影響かと思います。私自身、本を買う機会がかなり減りました。

 で、それは「新型コロナウイルスでつらいね」という話で終わるのですが、ふと前々から思っていた「出版社不要」論が、現実味を帯びてきたな、と感じたので、ちょっと書いてみます。

 素人意見ですが、それなりには本好きで多少知識があるのと、出版業界の知り合いが複数いるので、見当外れではないかと思います。

「出版不況」の内実

 私は平成生まれで、小学生くらい(?)のころには、既に「出版不況」と言われていました。下記は、出版科学研究所から引っ張ってきたデータです。

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日本の出版販売額(取次ルート)/『出版指標 年報 2020年版』より

 もう笑っちゃうくらい、下降の一途ですね。1996~97年あたりがピークとよく言われます。25年近くほぼ落ちる一方で、なかなかこんな業界も珍しいかと思います。
 特に雑誌はかなり厳しい。読者としての肌感覚としても、これだけネットでいろいろと見られ、雑誌的な専門ウェブ・メディアもたくさんある中で、「あえて雑誌を買う」のは、本当に特別に読みたい特集がある時くらいです。
 雑誌は週刊/隔週刊/旬刊/月刊/隔月刊/季刊、とありますが、基本的に「一定数の愛読者がいて、毎号一定数の購読がある」ことを前提としたビジネスモデルなので、仮にある号が目覚ましく売れようが、これでは成り立ちません。
 ただ、悪い話ばかりではありません。下記も、同じく出版科学研究所から。

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コミック販売額(取次ルート)/『出版指標 年報 2020年版』より

 このグラフを見ればわかる通り、「電子」の売上が急伸しています。もはや雑誌と書籍を足した紙の売上を上回る勢いです。「電子」の売上も出版社に入るわけですから、「なんだ、言うほど出版不況じゃないじゃん」と思うかもしれません。それに、「下降の一途」と書きましたが、そんななかでも毎年のように増収増益の出版社も存在しています。

 しかし、やはり「出版社不要」論は現実味を帯びてきたなと感じます。それは、単純な「売上減」からではなく、「役割」や「意義」の変化/減少からです。

「出版社不要論」≠「編集者不要論」

 ここまでの話に加えて、前提として大事なのは、出版業界が「作家」―「出版社」―「取次」―「書店」―「読者」という固いラインの上に成り立ってきたことです。ほとんどの本は「作家(コンテンツ)」⇒「読者(消費者)」という絶対的な両者の橋渡しとして、‟流通の必要上”「出版社」―「取次」―「書店」を必要としてきたのです。

「出版社不要」と言うと、とかく「編集者不要」と混在して語られがちですが、まず「出版社」の役割認識を誤っていると思います。「出版社」は優秀な「編集者」がいるから存在意義を持てたわけではありません。本を売るため/広めるために「営業」が必要だから、存在意義があったのです。

 なぜなら、傑作を作る才能あふれる作家が片方にいて、傑作を読みたいと切望する読者がもう片方にいたとしても、‟流通”がなければ出会うことすらなかったからです。
 だから、「取次や書店に営業してくれる出版社」が「作家」にとって大事であり、「本を探せる書店」が「読者」にとって大事だったのです。

 こう書くと、「ずいぶんと昔話をしているな~」と思われませんか。そう、「インターネット」の存在が事態を一変させたのです。

 いま、「作家」と「読者」は容易く出会えます。たとえばTwitterに漫画を載せたら、1夜にしてバズり(バズ自体、ユーザーの存在が前提)、1万人に読まれる、数千人の愛読者を獲得する、ということは、現実に起こっていることです。もう「出版社」も「取次」も「書店」も要らないのです。

「取次」崩壊⇒「書店」激減⇒「出版社」大淘汰という流れ

 と、ここまで書いたことは半分正しく、半分誤りです。「出版社」は「営業」が存在意義と書きましたが、こと「雑誌」に関しては違います。なぜなら、「雑誌」=「出版社」のモノであり、雑誌の「作家」=「出版社」だからです。厳密には「雑誌」は様々な書き手から出来上がるものですが、総体として(1冊の本として)は、「出版社(あるいは編集部)」が作者と言えます。
 よく「編集長」と言うと、「すごく偉い人」という認識を持っている方がいますが、それは「雑誌編集長」=「その本で最も権力を持つ作家」と言って過言ではないからですね。

 しかし、先述したように出版界において「雑誌」の未来はかなり厳しく、絶望的と言ってよいと思います。流通上の「取次」については、「全国津々浦々に本を届ける」ことを最大のミッションにしていたのですが、それを可能にしたのは「雑誌」の存在があったからです。
 雑誌は一般に書籍よりも部数が多く、また一定の購読者や愛読者がいる=一定の売上が立つため、ビジネスとして「美味しい」存在でした。それが崩れたことが、真の意味で「出版不況」なのです。

 たまに「雑誌はダメでも書籍の売上は下げ止まる(だから大丈夫)」と言う方もいますが、雑誌を軸とした流通ラインで成り立っていた以上、崩壊していくのは当然の理です。

 「書籍」を全国の書店に配本できるのは、「雑誌」と一緒にトラックに乗せられるからです。本当かわかりませんが、『週刊少年ジャンプ』が休刊したら、全国の書店に「書籍」は配本できなくなる、という話を聞いたことがあります。

 実際に、太洋社、栗田、大阪屋といった取次大手が破たんしました。二大取次と言われる日販、トーハンも、長くもたないでしょう。それは当然、「出版社」と「書店」にも影響を及ぼします。

 もともと「取次不要論」も長らく議論されていて、要は「出版社」⇒「書店」でいいんじゃない、「取次」は中抜きでしかないんじゃない、という話です。「再販価格維持制度」の議論とも絡んでいて説明が長くなるため、省略しますが、「多種多様な本を全国津々浦々の書店に置いてもらうため(それが読者、ひいては文化に資するため)」という「取次」の存在意義は(仮に失われつつあっても)意義として確かにあり、軽々に「不要」とは言えません。

 おそらく、取次が本当に崩壊すると、「書店」はキャッシュフローの維持が難しくなり、「(多種多様は捨て)売れる本だけ置くようになる」か「それでも経営が厳しくなり、閉店」という憂き目にあいます。となれば、「出版社」も最大の販売チャネルを失うことになるため、(仮に良書を作っていようが、それほど売れる本がない)零細、中小出版社から順に、潰れていくかと思います。

いったい出版社は「出版不況」に何をしてきたのか

 ここまでの議論は、相当に一面だけを切り取って図式化した話ではあります。もちろん、現場の方にはそれぞれに考えや努力があることでしょう。とはいえ、大筋は当たっているのではないでしょうか。

 インターネットはもとより、スマートフォンの普及によって、そもそも雑誌や書籍の「読書」にかける時間は、減っているのは間違いないかと思います。私もそれなりに読書しているほうだと思いますが、買うのは漫画を含めても年に100冊もないでしょう。

 それなのに、実はこの20年、本は大量に作られてきました。近年は減少傾向にあるとはいえ、新刊の年間冊数は一時期なんと8万点にも及びました。いったい、誰が読むのでしょうか。そんなに本が必要だとは、私には思えません。

 なぜ、そんなことが起こってしまったのかと言うと、構造的な問題は省略すると、要するに「出版社が自分のことしか考えていないから」でしかないでしょう。

 新刊を出せばキャッシュが生み出せるという仕組みの下、
◎売れた本の類書をとにかく出す
◎人気が出た著者に飛びつく
◎意味もない復刊
◎意義を持たない企画
 そうした「数、数、数」の論理が生んだのが、「年間8万点」という俄かに信じられない新刊の山でしょう。実際にすべてが書店に置かれているのかはわかりませんが、単純計算すると1日に220点です。正気じゃない。

 現場の方々がどう思われているか、どんな思いなのかという「実際」は知りませんので、暴論かもしれませんが、「すべての本に思いを込めて(あるいは戦略を立てて)、編集しています」という編集者、「あらゆる本を把握して(選定して)、店頭に並べています」という書店員、胸を張ってそう言える人は、どれだけいるのでしょう。
 いや、わかりません。実はかなり多いのかもしれません。しかし、素人の私の目からすると、どう考えても「8万点」という数字からは、そんな姿は浮かんでこないです。

 ハッキリ言って、出版社の数が減りさえすれば、自然と点数も減るので、状況は改善されるのではないか、と思います。「環境問題を改善するには、人が死ぬのが一番いい」みたいな理屈で、悪い考えかもしれませんが、現に読書家の数が減っている(そして増える余地が少ない)以上、当然と言えば当然のこと。
 まったく現実と違う見当外れな意見かもしれませんが、なんとなく編集者の「自分が編集者でいたい」というエゴが、状況を悪化させているような気がしてなりません。

これから「出版社」はどう生きるか

 「取次」はもしかしたら残らないかもしれませんが、じゃあ「出版社」や「書店」が消滅するかと問われれば、それはないと思います。「紙」の本がなくなり、「電子」だけになるという事態もない気がします。
 私が冒頭に述べた「「出版社不要」論が現実味を帯びてきた」という話は、下記に当てはまらない出版社はもう要らないんじゃない? ということでございます。

1)作家のほうから「ここで書きたい」「ここから本を出したい」と思う「場」を持っている大手出版社(講談社、小学館、集英社、文藝春秋、新潮社、岩波書店など)
 要するにブランドがある会社です。たとえば、Twitterやpixivでバズれば、すぐに書籍化される現代ではありますが、やはりいまだに「『週刊少年ジャンプ』で連載したい!」と思う漫画家志望者は多いでしょう。だからこそ、集英社は今も『鬼滅の刃』や『キングダム』のような骨太な長編ストーリー漫画で大ヒットを飛ばせるのです(ネットバズ系漫画にストーリー漫画は少ない)。
 あるいは雑誌自体はなくなるかもしれませんが、講談社が「コミックDAYS」を、集英社が「ジャンプ+」を運営しているように、雑誌をウェブに移行させてもそのブランドさえ落ちなければ、「持ち込みなどから才能ある作家を発掘」し、「作家と出版社(編集者)との二人三脚でヒットを目指す」ことは変わらず続けられるのではないかと。
 同じように、「芥川賞を獲りたいから、文藝春秋の『文學界』に小説を掲載してもらいたい!」とか、「岩波新書から研究の成果をまとめた本を出したい!」といった流れは残るのではないでしょうか。
 というか、ここは残らなければ、日本の出版文化は終わりますよね。

2)プロモーション能力に秀でている出版社(KADOKAWA、宝島社、幻冬舎など)
 こちらは、どちらかと言えば「著者人気」を最大限に利用するタイプの会社です(KADOKAWAは大きすぎて一概には言えませんが)。わりと「ネット人気」のある著者の本をよく出しているイメージがあります。
 人気の作家であれば、Twitterでバズったとか、テレビで人気になったとか、その理由は様々でも、基本的に「書籍化」の依頼はたくさん来るはずなので、「作家側が出版社を選ぶ」ことになると思います。その際に大事なのは、「プロモーション能力」です。
 書店で大きく扱ってもらうことはもちろんのこと、テレビ、新聞、ラジオなどへのパブリシティ、ネット上でのコラボ企画、美術館や展示スペースでのリアルイベント企画、映画やアニメ、ドラマなどの映像化、などなど、本を端緒にして多様に広げていくことが求められます。
 メディアミックスによって学術書出版社と言ってよい地味な角川書店から、巨大エンタメ複合企業KADOKAWAになったように、これはこれで残るでしょう。

3)強烈な出版意欲を持つ小出版社
 
先述した「新刊点数増大」へのカウンターとしての面もあって、ここ数年「一人出版社」が大流行となりました。ちょっと増えすぎている気もしますが、これは当然に残ると思います。というより、「生き残る」ことが最大の意義なので、残るはずです(残らないということは、もはや本の存在意義がなくなったに等しい)。
 経営的に大変だったりはすると思いますが、たとえば「月に手取り12万でも、出したい本を出し続けていく!」というように、それこそ「出版意欲」が先にきているので、まったく経営的には安泰なわけではないでしょうが、矜持で残ります(おそらく)。
 「一人出版社」的な存在として、人気の高いミシマ社(一人じゃないですが)は、「原点回帰の出版社」をコーポレートフレーズにしていますが、まさに「本には価値がある」「本にすべき企画は常にある」ことを信じ、突き進む「原点回帰」の出版社群です。

 具体的な社名などは、素人の「なんとなく」でしかありませんが、生き残れるのはこの3つのいずれかを持つ出版社ではないでしょうか。大手(1、2)と小(3)の二極化は進むかと思います。
 逆にはっきりと、この3つの何も持たない中途半端な出版社は、経営的に厳しいというのと無関係に、存在意義として不要ではないでしょうか。そういう会社は、結局のところ潰れるのが歴史の常です。

 微妙なのは1つのジャンルに絞った本を刊行する、いわゆる専門出版社です。強弱はあれど、その分野において上記1~3を持っているはずなので、生き残っていきそうだと思っていたのですが、案外倒産する出版社も多いらしく、そうでもないのかもしれません。
 ビジネス系に特化したダイヤモンド社などは調子が良さそうに見えますが、カルチャー系などは瀕死状態な気がします。ジャンル読者のそもそもの母数や、「雑誌」と「書籍」の比重、会社規模によるデジタル対応の可否、などにもよるのでしょうか。

編集者は不要か?

 というところで、書きたかった話は終わりなのですが、「出版社不要」論以上に、「編集者不要」論のほうが話題としてよく出る印象があるので、軽くそれについて書いて、〆ようと思います。

 いや、前提として内実を知らないので、わかりません。よく「●●社の編集者が最悪で~」的な作家側からの暴露話が出ますが、それを信じ切るのはあまりに一方的ですし、逆に作家側で擁護する人の言う「創作の上で、編集者は絶対に必要」というのも、実際にそうなのか。

 まあ、どれくらいの人数がいるかわかりませんが、「出版社不要」になっていくのであれば、当然「編集者」も数としては不要になっていくでしょう。「必要」とされる、「存在意義」を認められる編集者が、残っていくという当たり前の淘汰が進むかと思います。

「必要」だと思われる、本の編集者像を妄想すると

1)天才的なヒットメーカー
 具体的にはわかりませんが、やはり「この人が編集した本は、どれも10万部、20万部とヒットする」ということはあるそうです。企画力とか、キャッチコピー能力とか、何かしら非凡で、ずば抜けた才能を持っているのだと思います。一握りの天才ヒットメーカーは当然、残っていくでしょう。

2)エージェント/プロモーター
 
生き残る出版社でいうと「2」のようなイメージで、作家のエージェントやプロモーターとしての役割は、それはそれで生き残るでしょう。
 たとえば1000円のコンテンツを1000部売れる作家(noteの有料課金、amazonでの電子書籍販売、コミケの同人誌即売など、個人の販売チャネルが広がっているいま、かなりそういう人はいるようです)なら、単純に売上だけ考えると100万円を自力で稼げます。
 一方の商業出版の印税は、一般に10%と聞きますから、1000円で発売して1万部以下しか売れないようでは、作家としても出版社と組むメリットが感じられません(諸経費は除いて考えて)。おまけに、編集者や出版社側から、あれこれ内容に口出しされるようなら、デメリットですらあるかもしれません。
 それを人脈やプロモーション戦略によって、2万部、3万部と売ることができる編集者なら、いや売れなくても露出自体が作家にとってメリットということもありますから、「作家のためになる」エージェント/プロモーター的な役割を果たせる編集者なら、必要とされるのではないでしょうか。

3)インフルエンサー
 これは、編集者が自ら「作家的なポジション」というか、「インフルエンサー」となって、それをビジネスに生かすタイプです。わずか数年で一気に有名人となった箕輪厚介さんのイメージです(一気にバッシングされるほうに転じたのも、現代のインフルエンサーらしいかも)。
 作家にとって嬉しい存在です。それこそ箕輪さんに編集してもらえれば、オンラインサロンのメンバーは絶対に買ってくれるわけで、何もない編集者と仕事をするよりも明らかにメリットがあります。
 箕輪さんは例としては極端ですが、それなりにであればSNS上で影響力を持つ編集者はわりといるようです。

4)パッケージング・デザイナー
 
作家がコンテンツを世に出したり、お金にしたりすることが容易くなったのに、なぜいまだに本を出すのかと言えば、「本」という存在自体にまだ価値を見出しているからでしょう。
 ビジネス書作家は、「名刺代わり」という感覚で本を出すとも聞きます。となれば、純粋に「本を見栄え良く作り上げる」技術のある編集者は、ある程度必要とされるのではないでしょうか。
 ほとんどデザイナーの役割な気もしますが、そうはいっても編集者も必要とされるところもあるのかと。

5)編集者=天職
 
これは出版社で言えば先の「3」のタイプです。編集の仕事しかしたくない、できない、というような。「編集者として生きるか/死ぬか」なら、必要がどうとか以前に、もう編集者として生きていける限り、ずっと生きていくでしょう。
 昔ながらの雑誌編集者などにいそうですし、一人出版社を立ち上げる人なども、きっとそうなのでしょう。


 勝手な妄想ですが、「1」「3」「5」は誰でもできることではないです。誰でもできないからこそ、「1」「3」「5」はいるとも言えます(編集をされている方みんながインフルエンサーだったら、もはやそれはインフルエンサーではない)。
 というところで、今の編集者が生き残れるかどうかは、「2」と「4」の力の有無によるところが大きいのかなと思います。

 かつては「編集者」というと「クリエイティブ」なイメージもありましたし、「1」のような天才的な能力があれば、それもあるかもしれませんが、今は基本的にまず「人気作家」や「コンテンツ」がある。それをどう上手にパッケージングし、広めるか、というところに役割は移っていくように思います。

 そう考えると、従来の「編集者」が「編集者」を続ける必要もなく、出版社で言えば営業や宣伝の人のほうがこれからの「編集者」向きかもしれませんし、広告代理店で経験を積んだ人の方が「編集者」向き、ということもあるのかもしれません。

 まあ具体的には先の3つのどの出版社にいるのか、フリーなのか、といった要因も大きいでしょうし、実際のいろいろはわかりませんが、「編集者は淘汰される、けどプロデュース能力に秀でた人を中心に残る人は残る」というのが現実的な未来予想図ではないかと思います。(おわり)

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