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「ユダヤ人の町、バラクラバ その2」と「2017年2月 渋谷から新宿まで 夜中」と2/18〜2/24の日記

お知らせ

2023年2月よりオーストラリア メルボルンへ移住。現在はMBA取得に向けて大学院に通いつつ、Absolute MMAというジムでグラップリング/ブラジリアン柔術の練習に励んでいます。
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今週の文章は「ユダヤ人の町、バラクラバ その2」
今週の写真は「2017年2月 渋谷から新宿まで 夜中」
です。

今週の文章「ユダヤ人の町、バラクラバ その2」

2月に引っ越してきたバラクラバという町について、特にそこに住むユダヤ人コミュニティについて調べたりしている。

前回の記事では主にユダヤ教徒/ユダヤ人について知らなかったことや生活していて気づいたことなどについてかいていた。

今回の記事では、バラクラバという町やこの町におけるユダヤ人コミュニティの歴史についてもう少し深堀していく。

バラクラバという町

バラクラバはメルボルンのCBDから7キロほど南東に下ったところにある町で、2021年の人口は5300人ほど。町の名前は1854年にあったクリミア戦争における「バラクラバの戦い」から付けられたらしい。

画面中央少し上がメルボルンのCBD、赤く囲われているエリアがバラクラバ

日本でいうと、新宿を中心に考えた場合7キロほどの円を描いた場合、西は阿佐ヶ谷/浜田山、北は北池袋/板橋、東は御茶ノ水、南は目黒や祐天寺など。広さは代々木公園や新宿御苑よりも少し広いくらいのエリア。
1平方キロあたりの人口は6000人ちょっとで、杉並区は18000人近くなので単純に考えれば1/3くらいの人しかいない。のんびりしているけれど、郊外で住宅地なので意外と数字に直すと人口は多い印象。逆にいうと昼間の人口はとても少なくて20分ほど歩いても数えられるくらいの人としかすれ違わない。

町の初期の歴史

バラクラバが町として成立する背景にはトラムの開通がある。Chapel Street(サウスヤラから南に伸びるショッピングエリア)のトラムが1886年に開通、Carlisle Streetのトラムが1913年、そしてメルボルン(City)とBrightonの間の鉄道が1859年に開通。これらの公共交通機関の整備に合わせて街としての形が出来上がったらしい。

1903年に出版されたAustralian HandbookにおけるBalaclavaに関する記載
St. Kildaの町の一部、メルボルン-ブライトン間の電車の停車駅、郊外の中では人口が多いエリアの一つで住める場所のほとんどにはすでに住人がいる。ということが書かれている
(https://victorianplaces.com.au/balaclava)

もう少し広い範囲について取り上げると、Balaclavaの西に行った海沿いに位置するSt.Kildaの街は1850年ごろには町として成立。1857年にはCityからの鉄道も開通し、その前後からヨーロッパからの裕福な移民が多数移り住んできた。現在でもSt.Kildaはさながらリゾートのような趣のあるまちなのだが、海沿いの街でビーチは西向きのため夕陽が海に沈んでいくところを見ることができて、ウィリアムズタウンなどと違いそこまで風も強くなくて、まさに富裕層が別荘を建てたりするにはうってつけの場所に思える。
ちなみに自分の通っているジムであるAbsolute MMAの支部はSt.Kildaにありメルボルンに来る前から憧れの地名だった。Balaclavaの町の外れにはSt. Kilda Townhallや図書館などもあり、St.Kildaの一部として発展してきた歴史が窺える。

バラクラバのユダヤ人コミュニティ

バラクラバの町にユダヤ人コミュニティが成立したのは第二次世界大戦の後くらいで、どのようにして築かれたのかは調べてもよくわからないが、おそらく何家族かが移住してきて教会を建ててというような流れで多くの人が移り住んでくる場所になったのかもしれない。

話は少し逸れるのだが、メルボルンのコーヒーカルチャーも第二次世界大戦後、1970年前後までに移ってきたイタリア、ギリシアの移民コミュニティが牽引役となり発展した文化で、そう考えると(悲劇であることは前提としつつ)戦争と、それに伴う移民がいかに文化に影響を及ぼすかということに心を惹かれる。また、メルボルンという街の歴史の浅さだったりいかに現在進行形で形が作られていっている街なのかということも感じる。これだけみんなが外から来ている国/街なので外からくる人を歓迎してくれるのも当たり前なのかもしれない。

まとめ

オーストラリアの歴史について考えるとき、いつも出てくる数字の大きさにびっくりする。そのたびに自分が感覚として理解しているつもりになっているよりも直近まで侵略や植民地政策が行われていたことを実感するし、世界中を飛行機で旅行できるようになったのなんかせいぜい数十年前の話なのだということを実感する。世界は自分が思っているよりも圧倒的に不安定だし、ちょっとしたことでガラッと変わる可能性がある。
日本史であれば大体何年くらいに何があったかを大まかに理解しているし大きな流れも説明できるくらいだが、世界史におけるこういう年代感覚みたいなものが圧倒的に足りない。クリミア戦争っていう戦争があったことは知っているがなんとなく1500年くらいのものなのかと思っていた。世界史って一言で言ってももちろん何百もある国それぞれの歴史があるわけだが、中国史、ヨーロッパ史あたりは教養として最低限抑えておきたい。

参考文献/記事

記事のピックアップや取りまとめ、トピックごとの内容の整理などはChat GPTの助けをフル活用して行いました。

今週の写真「2017年2月 渋谷から新宿まで 夜中」

今週の写真は「2017年2月 渋谷から新宿まで 夜中」です!
オーストラリアに越してくる際に音楽機材や幾つかの靴、服などが入った段ボールが行方不明になってしまい結果的に多くの大事なものをなくしてしまいました。最近まで、その中にカメラのSDカードが入っていて大事な思い出も全部なくなったものと思っていたのですが、なんとSDカードだけ他のカメラ機材とは別の場所に保管されていて、それがこの前の引っ越しの際に出てきました!
過去に撮った写真はこれまでほとんどアップしてこなかったのですが、この機会にあちこちに旅行に行った際の写真なども整理も兼ねて少しずつアップしていこうと思っています。

この渋谷から新宿まで夜中に散歩しながら撮った写真は今使っているカメラの前のカメラを買った時に撮った写真で、それまで持っていたものとの性能の違いに興奮しながらあちこち撮った記憶があります。当時はなんの変哲もない写真だったのですが、7年の月日が経って別の国で生活しているとなんとも言えない趣が出てきます。

小金井の家の屋上から、朝家に戻ってから撮った写真
フルサイズのカメラになったのが嬉しくてこうかくの写真をたくさん撮っていた

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