「好きを仕事に」を問い直す。
「好きを仕事に」という言葉が、時々苦手だ。
でもその理由が、自分でもよく分からなかった。
理由がわからないものを「嫌い」とは言い切れないから、「苦手」と言っていたんだ。
「好きを仕事に」しなよおじさん
「いや、ほらもうさぁ、今の時代、好きなことを仕事にしないと生き残っていけない時代なんだよね。
好きなことを仕事にしてたらぁ、生産性ぜんぜっん違うから!
終身雇用とかさぁ、不生産でしかないわけ」
今は社会人の大学の先輩が、酔った勢いで口を開く。
(そういうあなたは、いつも仕事の愚痴ばっかりじゃないか)なんて思いつつ、形だけは先輩の一言に感心したように頷く。
「今の時代、好きなことを仕事にしてないで文句言ってるやつ?
すっげぇダサいよね、おまえが頑張ってないだけだろって」
一瞬で、背中がゾワっとした。
反射的に曲がった眉を隠すように、口元が”微笑み”を形作る。
あ、そうだ。この感じ。
これが嫌なんだ、私。
その先輩の言葉の節々にあったのは、
**「好きを仕事に」することへの絶対的正義と、「好きを仕事に」していないことへの批判
「好きを仕事に」していないことへの自己責任論**
だった。
「好きを仕事に」という言葉がそういう文脈で語られる時、私は少しの嫌悪感を覚える。
間違っても、「好きを仕事に」すること自体を否定したいわけではない。
表現することが好きで、それを仕事にできたらいいなぁと思いつつ一会社員である私は、「好きを仕事に」することはとても素晴らしいことだと思う。
ただその言葉が使われる文脈に、時に違和感を感じるだけだ。
ないものねだりゲーム
今は終身雇用が崩壊し、副業が進み、リモートワークやフルフレックスを採用する企業も増え始めている。
更に様々なSNSの出現によって、多くの人が手軽にコンテンツを発信することが可能になり、仕事の在り方は大きく変化した。
有名企業に就職して、仕事が落ち着き始めた頃に結婚。子供は2-3人育てて定年まで働き、退職後はマイホームでゆったり暮らす。
そんな、これまで「人生の正解」とされたキャリアを歩むことが本当に自分の幸せなのか、という問いが社会の中に生まれていることは、私もこれからの時代を生きる人間として、ひしひしと感じている。
「今のままではいけないのではないか」
という、これまでの働き方を含めた生き方に対する一つの問い直しが「好きを仕事に」という言葉にはこもっている。
人間は今あるものの良さを見つけるより、今はまだないものに良さを見出す方が得意だ。
「もう俺にはあの子しかいない!」
と夢中になっていた彼女も、いざ付き合い始めると欠点ばかりが目についてしまう。そして気がついたら、他の女の子の魅力に惹かれているなんていうのはよくある話だ。
それなのに別れてから彼女の大切さに気づくのが世の常で、人間の脳は本当にたちが悪い。
時代はそんな人の脳の仕組みを綺麗に反映している。
今は良いとされているものも、時代が変われば全く受け入れられない価値観になることがある。
つまり、今良しとされるものは必ずしもそれが正解なのではなく、人々が何かを否定したり、違和感を感じたりして、新しいものを模索する動きのひとつなのである。
そのような模索によって、時代の天秤は右に揺れたり左に揺れたり、はたまた後方に揺れたりしている。
ゆらゆらゆらゆら僕の心 過去に囚われ
ゆらゆらゆらゆら君の心 未来に消えて
KANA-BOONの「ないものねだり」の歌詞のように、気まぐれな人間の心に動かされ、時代はゆらゆらゆらゆらと揺れ続ける。
今ここに感じる不満や違和感は、人類が時代を進む上で必要な変化への原動力だ。
しかし、現在に対する否定がそのまま次の新しいものへの絶対的な正義になってしまうことに対して、私はいつも疑問を挟むことのできる人間でいたい。
「好きを仕事に」することは、確かに今の時代にはマッチしているかもしれないが、大切なのはそれが自分にとってどんな意味を持つかということなのだ。
「好きを仕事に」することは素晴らしい。
でも、物事の良い面だけを取りあげ他の物事を否定するのは、少し、悲しい。
振りかざされる”自己責任”という刃
「今の時代、好きなことを仕事にしてないで文句言ってるやつ?すっげぇダサいよね、おまえが頑張ってないだけだろって」
先輩のこの言葉には、”自己責任”という刃が潜んでいる。
人々がYoutubeやTwitter、インスタグラムといったSNSに生活を文字通り囲まれている現在、多くの人が手軽にコンテンツを発信をすることが可能になり、個人の影響力は以前とは比べ物にならないほどに大きくなっている。
竹下通りで芸能事務所からスカウトされなくても、インスタグラムで日々のコーディネートをあげて人気モデルになれる可能性はあるし、
Youtubeで動画をアップして歌手になることだって不可能ではない。
このnoteだってそうだ。noteを使ってライターとして活躍をする人だっている。(羨ましい限りですなぁ、、笑)
そんな、「好きを仕事に」できる可能性が高い環境が整った社会では、「好きを仕事に」するのに必要なことは外部環境ではなく、本人の勇気と努力ということになる。
つまり、
「え、なんで「好きを仕事に」してないの?
チャンスなんてどこにでもあるじゃん?言い訳してる暇があったら行動しようよ」
ということらしい。
これは時に強者の理論となって人々に襲いかかる。
何にでもなれて、何でも選べる環境が恵まれていることは確かだろう。
ただ、環境が整っていても選択の仕方が分からなければ、それはただ迷いのタネになるだけだ。
また選択するということは何かを捨てることであり、常に選ばなかったものの影に追われることにもなりうる。
人にはその人にあった自由の大きさがあり、過度な自由は時に人を苦しめる。
そんな中、何らかの理由で「好きを仕事に」できないことは、しんどいことかもしれない。原因は常に「自分のせい」だからだ。
しかし、この論理が通用するのは「好きを仕事に」することが絶対的な正義であると仮定する場合のみだ。
得意を仕事にしたって、お金が入る仕事をしたっていいはずだ。
「好きを仕事に」できない人が悪いわけではない。
「好きを仕事に」。その言葉が誰かを苦しめることへの想像力を失わずにいたい。
「好きを仕事に」を問い直す。
言葉は難しい。
同じ言葉でも人によって捉え方は異なるし、
異なる文脈の中で使われると全く意味が変わってしまったりする。
「好きを仕事に」という言葉は今の時代色んな人によって使われ、色んな文脈の中で意味を変え形を変えている。
「好きを仕事に」その言葉の裏に潜む意味を問い直す、その作業を大切にしたい。
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