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悲しみに食われないように。

自分の話を、大切な人にすることがあった。
その話は普段は話さないもので、
その時も話すつもりなんてひとかけらもなかったし、
堰を切ったように言葉が溢れる自分に驚いた。
同時に、後悔もした。

一通り流れ続けた言葉と涙が止まったとき、

私の口から出た言葉は

「でも、気にしないでね、私は(どんな出来事があろうと)私だから。」

そんな感じの言葉だったと思う。
泣きすぎて、ほとんどうまく言葉がつながらなかったし、
言いたかったことのニュアンスが伝わったのかは、正直分からない。

その数日後、インターン先の経営者の方からメールが来た。
そこにはこう書かれていた。

前半生で何かを背負った人間は、後半生でそれ以上の何かを手に入れ、またそれを社会に還元していくものだとも信じております。ベートーヴェンしかり。

その経営者の方は、私が彼に話した話を知っている数少ない方で、
その方からこのような言葉をもらったのはとてもとても嬉しかった。
自分のこれからに期待を持つことに背中を押してもらうような、そんな言葉だった。

でも同時に、
私はこの言葉を見て、この話を大切な人にした時の後悔の気持ちと、口から出た言葉を思い出した。

「私は私だから、気にしないでほしい。」

それは、その時相手に向かって発した言葉であったけれど、
本当は自分に向けて発した言葉でもあったんだと思う。

確かに、過去に辛い経験を持っている人は、
その経験の固有性やそれを生きる中で得る何か、によって、人と違う価値を発揮することがある。
それは事実だと思う。事実であってほしいという希望も多分に含んで。

だけど、
自分が他と違う、分かり得ない辛い、
または特異な経験をしてきたということ、
それを生き物を飼うように自分の中に内在化してしまう、その危険性を私は感じたりもするのだ。

先日見た『ショート・ターム』という映画で
過去に両親に暴力を受けて来た保護施設の職員の女性が結婚前に不安になり、彼にこう告げるシーンがあった。

Mason:I know it is a very fuck day, today, okey.Grace:There's no way you would know about me.Mason:Then, tell me. That’s how it works to talk to me about it, so I can take your hand and walk with you. That is what I stay here, okey. I can’t do that if you want to let me in.Grace:I can’t. I’m sorry.

このシーンを見た時、私は思い出した。

過去に私の目の前で永遠の愛をうたい、「幸せにする」と言った男の子に対して、
(分からない未来に対して、守れるかも分からない約束を容易にするのはやめてほしい)と思い、
(私を幸せにするのはあなたではなく私だ)
と思ったことを。

そして、私は果たして彼女のような壁を作っていないと言い切れるのか、考えた。

悲しみを糧にして人は強く、
優しくなりうるのかもしれない。
ただ、その悲しみを自分の支えや希望の源にしすぎると、人はそれらに食われてしまう。
悲しく、辛い経験を持つ自分に縛られる。
それは時にとても排他性をもたらし、自分を、孤独にする。

だからきっと私は彼に話した時に後悔をしたのだ。
それは、相手に心配させてしまったのではないかとか、
変なものを背負わせてしまったのではないか、
という後悔でもあるけれど、
何よりも自分自身がそれを言葉にすることで、
自分に、その悲しみに、食われてしまいやしないかと思ったからだ。

確かに、それらの経験は今の私を作っている。
でもそれらの経験がなくても、多分私は私でありうると、思う。

多分私は何も背負ってなんかいない。
それらの経験を抱えて、握りしめて、
そうやって拠り所にして、そうやって強く拳を握って生きる日も恐らくあるだろう。
でも、そんなこととは全く無関係に心向くままに多くのものに出会い、
出来事の色を塗り替えていく、そう言う軽やかさも同時に持ち得ていいはずだ。
悲しみを拠り所にせず、壁の内側からもっと自由に手を伸ばしていいはずなんだ。

きっと私が思うより世界は、優しくて輝いていると、信じても怖くない、きっと。

#ショートターム #映画 #コンテンツ会議

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