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デヴィッド・ロウリー『グリーン・ナイト』自分自身の物語についての物語

アーサー王物語の一篇である『ガウェイン卿と緑の騎士』を原作としたロウリーの最新作。多くの場合であまり良い奴として描かれないガウェイン卿だが、本作品でも飲んだくれで娼館に通い詰める青年として描かれている。アーサー王の甥っ子だが両者の間には距離があり、彼のことを知ろうとしなかったアーサーは改めてガウェインに"君のことを教えてくれ=君の物語を語ってくれ"と問いかけるが、彼は"語るものなどなにもない"として拒絶する。やがて、やってきた緑の騎士のゲームに乗ったガウェインは、その勇敢さを称える自分の物語が自分自身から離れたところで勝手に形成されていくことに苛立つ。本当の彼は飲んだくれの若造で、偉大な叔父に話せるエピソードなど一つもない一般人なのだ。だからこそ、嫌々ながら出発した旅の途中で、無様にも盗賊に襲われ、精霊に依頼の対価を要求し、貴婦人の誘惑に乗りかけ、緑の騎士の前で何度も"待った!"と言う。彼には高潔さも知恵も寛大さも勇敢さも慈悲深さも欠けているのだ。興味深いのは本を集め、時には自分でも書いているという貴婦人が"私の聴いた物語、私に歌われた歌、改善の余地があれば改善する"と言うシーンだろう。受け手、語り手によって自由に他人の物語が改変されてしまうこと、そして改変されてきたことを示しており、自分自身の物語を語ろうとするガウェインとは正反対のことをしている。この対比を通して、自分自身の物語を取り返すのが本作品の主題である。だからこそ、ガウェインによる最初のセリフは"十分時間はあったがまだ準備できてない"で、最後のセリフが"準備が整った"なのだ。

また、本作品で特徴的なのは、女性たちがその対比構造の中に印象的に配置されていることだろう。冒頭に登場する娼婦エセルとガウェインを誘惑する名もなき貴婦人はアリシア・ヴィキャンデルが演じており、エセルが渡したお守りの鈴を貴婦人が奪い返す、エセルも貴婦人も現在地にガウェインを引き止めるなど両者の存在は徹底的に対比されている。また、貴婦人の隣に立つ目隠しの老婆は、ガウェインの母親(伝説上は叔母とされる)モーガン・ル・フェイが儀式の際に目を覆っているのと似ている。目隠しの老婆が神出鬼没なのも、モーガン・ル・フェイが物語を始め終わらせたのと呼応しているのだろう。また、緑の騎士の手紙をグィネヴィアが読み上げるシーンでも、彼女は騎士に乗っ取られ、騎士の声で言葉を放つのが印象的だ。こうして考えてみると、ガウェインの物語は男性たち(緑の騎士、アーサー王、盗賊、領主)よりも女性たち(母モーガン、エッセル、貴婦人、聖ウィニフレッド)に導かれていることが多いのが分かる。実に興味深い視点だ。

本作品は四大元素をモチーフの中心とし、緑が風と大地、つまり時間そのものを表している。これは貴婦人が"なぜ緑なのか?"という疑問を投げかけ自ら応えていくシーンで明示される。"緑"とは現在の名声、情熱、戦争、全てを飲み込む色だ、と。炎として対比されるのは冒頭で燃えるガウェインの頭、娼館から見える火事、王冠の後ろの太陽、湖に飛び込んだときの背景、大規模な戦場の跡地で、水はガウェインだけが旅の途中で常に水まみれであることが他人との違いを際立たせる。緑の騎士が"時間"という強大な存在であるなら、彼に立ち向かうことは死後も語られ続けること=時間を超越すること、つまり伝説になることを意味している。自分自身の物語を取り戻した上で、彼は時間を超越したのだ。

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・作品データ

原題:The Green Knight
上映時間:130分
監督:David Lowery
製作:2021年(カナダ、アイルランド、イギリス、アメリカ)

・評価:70点

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