見出し画像

ナエ・カランフィル『Philanthropy』ルーマニア、同情するなら金をくれ

超絶大傑作。クリスティ・プイウ『Stuff and Dough』によって花開いたルーマニアン・ニューウェーブの中で、最初期の金字塔的映画。二つ並べて開祖としている文献もチラホラ(ちなみに、主人公の名前も一緒)。監督ナエ・カランフィルは有名な批評家Tudorの息子で、1960年に生まれた。ブカレストの映画大学を卒業後、短編映画で順調にキャリを重ね、初長編『巴里に天使が舞いおりる』は日本で公開されたこともあるようだ。長編三作目となる本作品は批評的に成功を収め、上記のようにルーマニアの新しい波が後に世界へと羽ばたくのを支えた。

街には貴族と乞食しかおらず、その間には野良犬しか居ない。これが中産階級である。そんな不穏な文句から導かれる冒頭、中年夫とその若い妻がレストランで伝票を見て絶句する。そこまで高級な感じもしないが、桁が一つ違っていて到底払えないというのだ。別の強面従業員に囲まれ絶体絶命となった夫婦だが、店にいた金持ちが払ってくれたので九死に一生を得た。

しかし、これは演技だったのだ。物語は少し時間を戻す。中年夫を演じていたオヴィディウはしがない国語教師。生徒は携帯電話の普及によって授業は聴かないし、校門の前は送迎の車が押し寄せ、自身が高校生だったチャウシェスク時代には考えつかないくらい自由な時代になったことを痛感する。彼は未だに未婚で両親と暮らしていて、全く売れない短編集を出して小説家であることを自負している。そして、執筆に必要なタイプライターが重要なアイテムとして何度も登場することになる。"自宅"という舞台を何度も変えることになるオヴィディウの行く先々に登場して、さもそこが"自宅"であると主張するのだ。

ある日、校長に問題児ロベルトの対処を押し付けられ、その両親を学校に呼び出すと、魅力的な姉ディアナが登場する。一瞬で心を奪われるオヴィディウ。調子に乗って本を渡し、カフェで待ってますと伝える。彼はコーヒーを飲んで会話するのがデートだと思っていたが、ダイアナの思うデートとは酒を飲みまくってクラブで踊り狂うことだった。

金が掛かる。

兎に角、若い女には金が掛かるんだ。薄給の教師には辛い。ダンスゲームの賞金目当てに本気を出すが失敗。金だ、兎に角、金が欲しい。

そんな中、物乞いのおっちゃんに酒を奢る羽目になったところ、彼が自分より何倍も"稼いで"いることを知る。物乞いの組織があり、TPOを適切に選んで物乞いすることで直接的(お金をもらう)にも間接的(奢ってもらう)にも稼ぎまくっていたのだ。そのまとめ役であるパヴェルは、それぞれに見合ったストーリーを考えて提供する代わりに、上がりを徴収していた。駅前でバイオリンを持って座っている男は、弾くことすらままならない老人に見えるが、実際には弾いたことすら無い元気な老人であったり、或いは清楚な身なりをした男が"ATMが壊れたからお金貸して"と金持ちに迫って金を受け取ったり。これらは全部物乞いの一種であり、全てパヴェルが考え出したのだと。"悲しそうな顔"をしているオヴィディウは彼のお眼鏡に適った。そして、金が欲しいオヴィディウと利害が一致した。

ここで冒頭の文句が生きてくる。金を払う金持ち、彼らから金を受け取るだけの物乞い、中産階級はそのどちらでもなくがむしゃらに働いてやせ細っていく野良犬でしかない。チャウシェスク時代が終わったルーマニアは、たしかに自由になったのかもしれないが、その一方で経済格差が深刻に開き始め、中間層が居なくなってしまったのだ。だからこそ、オヴィディウの小説を破り捨てる旧支配者層の小説家たちはチャウシェスク時代の古いパブに集まってソヴィエトの酒を飲み、チャウシェスク時代を生きた両親は現在の低額年金生活を憂うのだ。

オヴィディウは若いパートナーとしてあてがわれたミルナと共に夫婦を名乗って高級レストランで騒動を起こし、協力者であるウェイターから差額を貰って稼いでいた。これが冒頭の事件の真相だ。そして、これら全てはディアナを振り向かせるためにやっているのだ!アホか!ミルナにアドバイスを求め、渋るパヴェルから別荘を借りてまでディアナとヤろうとするが化けの皮はあっという間に剥がれ、彼女は去ってしまう。

次の仕事でカラオケ店を訪れたオヴィディウとミルナは、今度は本当に地下に連れて行かれてボコボコにされた。これがパヴェルの次なる計画だったのだ。"ボコボコにされた教師"としてテレビ出演することで全国から寄付金をせしめようというのだ。これに反発したオヴィディウは出ていく。その日、学校に出向いたオヴィディウはロベルトを探している強面おじさん二人組に遭遇し、3000ドル用意しろと伝えることになる。ディアナのためにテレビに出演する。彼らは昔払ってもらった青年から身分をバラされそうになるが、学生のくせに自家用車を使う彼にバスの回数券を見せてやり込める。ここは一種の見せ場の一つであるが、消費するだけでは終われない深みがある。金持ちは乞食に同情して金を与えるだけで、その間は永久に埋まらないことを暗に示している。経験したことがないことは想像の範疇にすら無いのだ。

そう思うと乞食を束ねるパヴェルが金持ちという皮肉も面白い。金を集めてるからそれはそうなんだけども、"差し出す手に心揺さぶる物語がなけりゃ施しの心なぞ生まれん!"と積極的性善説を真っ向から否定し、貧しいことには理由がないといけないとする金持ちの押し付けがましい理想をそのまま転写しているのだ。逆に考えると金持ちに理由はない。金持ちのガキは金持ちだし、それに対するお涙頂戴物語など存在しない。これがカランフィルの言いたかったことなんじゃないか。

いい顔をしようとしてロベルトの3000ドルを肩代わりし、ディアナに渡す。彼女は戻ってこなかった。ロベルトの姉ではなく、ただのカノジョだったのだ。上手く金持ちを騙していたオヴィディウもまた、金を持ったことで騙されていたのだ。項垂れるオヴィディウはパヴェルによって見知らぬアパートに連れ帰られ、ミルナと夫婦として取材を受ける。3000ドルの代償に、この偽装夫婦を本物の夫婦にして、全国から金を巻き上げようというのだ。取り残された夫婦は、詐欺の内容通り結婚10年目にされていて、ちょうどチャウシェスク時代の終焉から10年弱経ったルーマニアの疲弊と喧騒を写し取ったかのような表情を浮かべている。

物語の帰結はそこだが、映画の帰結は続きがある。二人の家を出たパヴェルは路上に這いつくばっているロベルトを見つけ、仕事を持ちかける。彼は新たな乞食となったのだ。そして、パヴェルはカメラに"このクズに同情するか?なら金は持ってんだろうな?"と煽る。慈悲と博愛=Philanthropyの地獄が幕を開けた。

画像1

・作品データ

原題:Filantropica
上映時間:110分
監督:Nae Caranfil
公開:2002年3月15日(ルーマニア)

・評価:95点

よろしければサポートお願いします!新しく海外版DVDを買う資金にさせていただきます!