自分に起こった出来事を解釈することの意義:「お箸ぶっ刺さり事件」より

*2022/1/10作成
**痛いのが怖い方は、読まない方がいいかも・・?

ぼくは、去年のお盆にお箸が足の中指と人差し指の間に刺さってしまい。
お箸が折れて、その先端が足に残っていると思わずに、松葉づえをつきながら、鴨川から大阪に移動し。
2ヵ月ほど、緩和ケア病棟に入院した妹の看病をして、彼女を看取り。
その直後、無事「先端」を抜き取る手術を終えた・・という経験があるのですが。

よくよく考えるに、そんな経験する人なんて、1万人に1人くらいなんじゃないかな?と。
さらには、折れたお先が足に残って、そのまま2ヵ月杖をつきながら家族の看病をした人なんて、ひょっとしたら、今を生きてる日本人でぼくだけなんじゃないかな?
・・という妄想もあるのですが。

とにかく、このお箸事件にはあまりにもいろんな条件が重なり過ぎているので。
「これには必ず、神様視点からみた意味とか意図のようなものがあるはず!」と思って、暇なときにボンヤリ考えてきました。

だって、そもそも、なぜ、床に落ちたお箸の先がぼくの方を向いてたのか?
なぜ、ぼくはそのとき、スリッパをはいてなかったのか?
なぜ、お箸が折れて、その先っぽが足に残ったのか?
なぜ、南房総で一番の亀田病院の先生が見逃してしまったのか?
なぜ、妹が緩和ケア病棟に入院する直前だったのか?
なぜぼくは、大阪で看病生活を始めても、すぐに現地の病院に行かなかったのか?
なぜ、ぼくの足の手術予定の直前に妹は亡くなって、お式も、ぼくの手術・入院も無事に終えられたのか?・・などなど。

こんなにたくさんの条件が重なるのは、偶然じゃないと思えるので。
何か意味があるんじゃあ?と考えてしまうのです。

ぼくの中では、まだ考え中で、整理はついてないのですが。
緩和ケアで闘う妹に少しでも近づけるように、ぼくも痛みを感じたかったのかもしれません。
ガンの家系にありながら、ぼくではなく妹がガンになってしまったことに、罪悪感のようなものがあったのかもしれません。
健康が人生の前提レベルで大事だということを、妹のケースとぼくのケガのダブルで、神様が教えてくれてたのかもしれません。
もしくは、自分にとって本当に大事なものは何か、優先するものは何かを、ギリギリのところでぼくに選ばせてくれていたのかもしれません。

確実に言えるのは、すべては、ぼくが妹を看取るにあたり、タイミングも学びも完璧だったこと。
もし、鴨川のお医者さんがお箸の先端を見つけていたら、妹の入院に付き添えていなかったかもしれないので。

もう一つは、手術から3ヵ月経った今は、普通に歩けることだけで、とても幸せを感じている、ということ。
お散歩であれ、買い物の途中であれ、ただ普通に歩いているだけで幸せと感謝の気持ちになれるというのは。
これまで経験したことのない、自分でもびっくりする感覚です。

経験とそのときの感情や学びによって、世界の見方とか、感受性とか、幸せや感謝の基準が変わり。
(自分から見える)世界が変わっていくのだと、常々思ってきましたが。
「歩いてるだけで幸せ」と思える限り、幸せを感じるのは簡単というか、この先は怖くないというか。
なんかそんな感じの「幸せや安心感の拠り所のようなものをもらえた出来事」だったように思います。

こういうのは、「ただの都合のいい解釈」とも言えるんですが。
ぼくはその解釈こそが、幸せを感じていられる時間を変えたり、判断を変え行動を変え状況を変えるためのキモなのだと、思っています。

まあまたいつか、会ってこんな話をしましょ~。

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