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熊の飼い方 19

光 10

 いつものように、デスクで資料を作っていた。今日は会議までの時間に余裕がある。時計を見るともう午前十一時だ。出勤時間から三時間も経っている。
 今日はいつものようにいかない。何故か手から汗が滲み、心臓がいつもよりも早く打つのがわかる。初めてのことではない。高校時代にも同じような経験をした。
 あれは、高校三年生の日本史の授業中のことである。先生は強面で、いつも日に焼けていた。授業はいつもつまらないが、居眠りをしようとする生徒がいると、執拗に怒鳴る。みなそれが怖く起きているが、内容が入ってきている生徒は少なかった。その日は朝からいつもよりも体調が優れず、すこし火照っていた。それに加え、受験まで後半年という局面であった。そのプレッシャーと来年に対する不安で動悸が始まった。周りの生徒には気付かれないようにしていたので、誰も気づいていないと思うが、あの時のことは忘れない。
 今でも、なぜあのようなことになったのか、理由は分からない。それと同じことが今、起こっているようだ。高校時代も動悸はすぐにおさまったから、すぐ治ると考えたが、今回は二時間ほど続いた。確かに体は入社当時と比べてガタがきているのは確かだ。だが、そんな弱音は吐いている暇はないのは分かっている。佐々木には確実に遅れをとっている。このまま何もしなければ、佐々木に突き放されるのは確実だ。その思いとは裏腹に、心臓は自分の体を動かすことに反抗するように高鳴りが収まらない。トイレに向かい、顔を水で洗い流す。トイレに長居しているだけで無駄な時間であるという焦りが出てしまう。デスクに戻るが、集中することができない。そんな日に限って、先輩から頼みごともされる。さらに悪循環であった。
 午後10時になり、落ちた気分で仕事の資料を購入するため、徒歩で駅に向かった。人通りが多いところに行くと気が滅入ってしまいそうだったので大通りから少し離れた路地を歩く。この方が多くの人から見られることなく駅に着くことができる。
 地面にはところどころにタバコの吸い殻が落ちている。あまり吸われていない吸い殻が多い。二・三回吸われただけで捨てられたようだ。欲求をすこし満たすだけ、心の埋め合わせだけに使われるタバコ。その埋め合わせによって、一瞬で役割を終える。役割を終えると一瞬にしてゴミとなる。自分の姿と重ね合わせた。自分も会社に人数の埋め合わせだけに採用され、用が無くなれば捨てられるのだろう。見かけは良いように見られるが、吸ってみれば、使って見れば何にも利用し難いただのゴミである。そのうちクビになり、社会不適合者の烙印を押されるのだろう。
 足取りが重くなった。
 大通りに出た。地面を見つめながら歩く。ふと顔を上げると、一人の綺麗な女性が誰かを待ち立っている。西洋人のように鼻が高く、目がパッチリとした二重で、全体的に彫りが深いという印象だった。髪はセンターに分けた、黒い長髪である。このような女性は、多くの人に需要があり、多くの人を幸せにするのだろうか。僕にもあのような人が側にいてくれたら、世界は花が溢れて見えるのだろうか。
 束の間、女性のもとに現れたのは見慣れた男だった。自分の隣にいつも座っている男、佐々木である。佐々木はスマートな笑顔で西洋女性に声をかけ、手を組みながら颯爽と歩いて行った。
 驚きを隠せず、同時に顔をさらに地面に向け、足取りを早くし、出来るだけそのカップルを遠ざけるように歩いた。佐々木には勝てるところがないのではないか。そのような屈辱感が体全身を纏う。スポーツをして遊んでいるような人間、彼女を持ちイチャイチャしている人間。そんな人間には負けたくないという思いで、勉強をしてきた。僕の居場所はいつも図書館だった。
でも、今はどうだ。仕事も負けて、プライベートでも屈辱を味わっている。僕は生きていて意味があるのだろうか。それすらも分からなくなってくる。さらに駅へ向かう足取りが重くなってきた。
 電車に乗るのは久しぶりだった。ホームに到着した電車には、詰め込んだように人が押し込まれていた。満員の電車に乗りこむと下を向くことが出来ず、上を向いていると車内のチラシに目が止まった。

十万部突破 「転落からの復活の方法」

 復活か、と頭で復唱した時にふと思い出す。自分も考え方を変えれば、この生きていても意味のないと思う世界を変えられるのではないか。そのような、少しの期待が芽生えたと同時に、そんなことでうまくいくはずがないという絶望も生まれた。
 そう感じた途端、島崎の顔が浮かんだ。手は自然にスマホに向かっていた。


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