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熊の飼い方 40

影 21

 天気の悪い朝だった。外では横殴りの雨が降り、雨粒が壁に不規則なリズムで打ち付けている音が聞こえる。台風がきているのではないか、と推測した。最近、それほど外の天気というものを気にしてこなかったため、不思議に思った。また、いつもよりも湿気を感じた。何か不吉な予感さえした。ただの予感であると言い聞かせ作業着に着替え、作業場に向かった。
 いつものように作業をしようとしているとごっさんの姿があった。普段よりも顔色が良くないことを感じとった。体調が悪いようだったが、あまり気に留めず黙々と作業に取り掛かった。しかし、ごっさんは何回かおなかを抱え、トイレに駆け込んで行くところが見えた。やはり何か体調が悪いのだろう。
 数分してもごっさんはトイレから帰って来なかったので心配し、自分も用を足しに行くといってトイレに向かった。向かう途中、よくもあんなトイレに長い時間居続けることができるな、と思っていたが、トイレに入るとその理由が分かった。
 トイレの個室からは、呼吸が荒いような音が聞こえた。耳を済ましてみると、唾を吐くような音も聞こえた。個室に鍵がかかっているのは一室だけだったので、ごっさんがいる場所はすぐに分かった。静かになったと思うとすぐ、嘔吐する音が聞こえた。自分の中から嫌なものを全て吐き出すようなそんな音だった。
 どうしたのだろう。この環境に慣れない人がよく吐くということは見ていたが、ごっさんはここに来て三ヶ月以上経っているので、それは無さそうだった。僕もそこにずっと立っている訳にもいかず、かといって吐いている人物に声を掛けるという荒技も出来なかったので、用を足し、作業場に戻った。
 数分後にごっさんは戻ってきた。顔は気持ちを整理した後きたのか、少し晴れやかな顔をしていた。しかし、顔色はいつもよりも良いとは言い難い印象だった。
 休憩中、柄にも無く僕からごっさんに話しかけた。
「大丈夫ですか?気分が悪かったようで」
「気づかれてたんですか。すみません。ご心配おかけました」
「何かあったのか心配になりました。何かありましたか?」
「いえ特に何も無いんです。何か不安なこと思ったり、嫌なことを思い出したら、すごく吐き気がするんです。いつからこうなってしまったのか」ごっさんは俯いて答えた。
「そうなんですか。無理しないでくださいね」
「ありがとうございます。もう大丈夫です。心配しないで下さい」ごっさんはそういうと、僕に心配をかけまいとしたのか満面笑みで答えた。
「はい。ごっさんも体壊したりするんですね」
「何言ってるんですか。そら壊しますよ。僕めちゃ体弱いんですよ。こんなガタイしてますけど」
「そりゃそうですよね」
 そんなやりとりをして、仕事に戻った。ごっさんとともに笑い合ったのだが、心から笑うことが出来なかった。ごっさんが吐いていたところを見たのもそうだが、何より休憩室で話した後の去り際のごっさんの非常に悲しいような寂しいような横顔が非常に気になったからだ。その瞬間、何か深い闇のようなものに吸い込まれるような錯覚に陥った。


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