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熊の飼い方 21

 光 11

 小さな雑居ビルのエレベーターを登る。
『島崎流 自己啓発セミナー』
 二階に到着し、扉が開いった時に目の前に見えたのがこの看板である。看板があるところの部屋のドアを開ける。
 そこは教室ようだった。椅子と机が前のホワイトボードに向かい並べられている。ホワイトボートマーカーの匂いが教室全体にほんのりと香っている。このような教室に入るのは中学校の塾ぶりのようで、少し懐かしい気持ちに浸りながら部屋に入った。
 僕がついた頃には三人が距離を置き、まばらに座っていた。座っている人達には会話がなく、初めての人が多いのだろうか、と考える。その三人と適切な距離を取って座った。まだ三十分も前なのに三人もの人がいるということに驚いた。僕が最初の一人だろうと思い、来る人たちを観察してやろうと考えていたのだが、そう上手くはいかなかったことに少しの苛立ちを覚えた。
 待っているうちに人数が増えてきた。その中の人々は、目に輝きを持っている人がほとんどだった。僕はここにいてもいいのだろうか。そんな気持ちが溢れてきた。しかし、奇しくもドアから遠い場所に座ってしまっていたために抜け出す事が出来なかった。
 始まるまでは三十分ほどなのに、待っている時間は二時間ほどに感じた。本読みながら待っていたのだが、人が扉を開けて入って来るたび目線は扉の方に移ってしまう。そのため、本の内容は全く頭に入って来なかった。
 入ってくる人々は、綺麗な顔立ちの男、いかにもキャリアウーマンと見られる背の高い女性、社長とも見られる剛毛な髭を蓄えた中年の男など、ここにいる人々は将来、いや現在日本を背負っているような人々であるということが一目で分かった。自分は場違いと感じ、この場に非常に居づらくなってしまった。
 周りを眺めていると、スーツを着た男性が次々にホワイトボードを横切って入ってきた。自然と心臓が鼓動を始める。その中に一際目立つスーツを着た島崎がいた。島崎は教卓の前に立ち一礼をする。やはり立ち住まいはカリスマだ。
 司会が言葉を発し、今日どのように進むかを説明する。慣れた口調で会が流れていくのが分かる。司会とはこうあるべきなのだろうと学んだ。自分でも自然と自己啓発に足を踏みいれていることに気付かされた。司会が島崎を紹介する。
「今日は、ビジネス界のカリスマ島崎亘に来ていただきました。みなさん、よく聞いて明日からの生活に生かしましょう!」元気な司会者は、こう言った後、島崎のプロフィールを紹介した。ではどうぞ、というと島崎が少しにこやかな顔で出てきた。
「紹介に上がりました島崎です。早速ですが、みなさん仕事は楽しいですか?」
 一斉に視線が島崎に集まる。
「今の日本には仕事を楽しんでいる人はほとんどいないように思われます。ヨーロッパでは、仕事は休日の遊びのお金を貯めるため、生きるためにされている事が多いのです。でもよく考えて見てください。人間の人生のほとんどは仕事をしています。仕事をして、寝て、朝起きて仕事をする。また家に帰り寝る。たまの旅行、飲み会。飲み会も仕事の一環で苦痛が多い。上司やお客様からも心無い発言。そんな苦痛だらけの生活これからも続けていくつもりですか?ここで考え方を変えましょう。仕事は楽しいもの。人生を豊かにするもの。そう考えれば世界はもっと広く、日々が楽しくなると思いませんか?著名人がこんなことを言っているのを聞いたことがありませんか。『趣味の延長線上が仕事になった』と。皆さんもそれぐらいの気持ちでいいんですよ。趣味で仕事をしてもいいんです」
 そんな簡単なものでない、そう考えられるほど人生甘くない。そんな視線を島崎に投げ掛けている自分がいる。周りも少なからずそう思っている人が多いだろう。視線が島崎と幾度か合う事が分かる。僕のネガティヴな考えは島崎にはお見通しのようだった。
「とは言っても、そんな簡単に思えないのが人間です。楽しくない事を楽しく思えたらそれはいい事だろう。そんな人生甘くない。そう考えてらっしゃる方が多いのではないですか?大丈夫です。すぐに楽しく思えるようになる。そのための今日のセミナーなのですから」
 まだ納得しきれない事が多い。しかし、司会の話し方に勝り、島崎の話し方や間の取り方には何か引き込まれるものがあった。一種の洗脳とも言える。この人について行けば、何か違うものが見える。そんな感覚にも陥った。
「考えて見てください。働く、これは人間のみに与えられた特権です。動物は生きるために動く。しかし、人間は働く。それは、自分のためでもあるがもちろん人のためでもある。なぜ働くのか考えたことはありますか。そこの前から二番目の女性、どう思いますか?」「社会を回していくためですかね」
「なるほど。確かに働く人がいなければ社会はうまく機能しませんよね。では、ネガネのあなたはどうですか?」
「食べるためですね」
「食べるため。そうですね。食べない限り人間は餓死してしまいますよね。皆さんの言葉は、非常に正しいです。しかし、そんなことばかり考えていて毎日が楽しいのか。疑問に思います」島崎は真剣な顔つきになった。それにより場の空気が一変する。
「みなさんは生まれた時から、働かされていますか?生まれた時から奴隷ですか?この世界には、生まれた時から戦争に巻き込まれ、何の為かもわからないような単純作業をさせられている方々も、悲しいことに山のように存在します。しかし、この先進国日本では、そのような人たちの数は少ない。ここにいる方々は少なくともそういう生まれた時から身分が低いと呼ばれる方々はいらっしゃらないと考えます。話ができ、ご飯を食べる事ができ、ここにおられます。逆に、仕事はしているが、ただ毎日を送る、ましてや、ニートと呼ばれるような人も生きていける世の中なのです。何が言いたいか。簡単です。仕事を仕事と思わないようにする。仕事をする事が楽しくなれば、毎日が楽しくなる。楽しくなれば人よりも努力ができる。努力できれば結果が伴い、社会で認められる人間になる事ができる。認められれば給料が上がる。給料が上がりお金が増えれば、たくさんの人を救うことができます。皆さん、一緒にたくさんの人を救える人間になりましょう!」
 皆、感動したような、将来に希望を見出したようなそんな目をしていた。しかし、僕はそうでは無かった。なぜなら、それに憧れる自分がすでにいたからだ。考えた末に行動する事ができなかったからだ。正直、半信半疑であった。
 セミナーは進んで行った。アイスブレイクの仕方、お客様との関わり方、クレームの対応など、新しく聞くことばかりだった。それに実際やってみる事で、簡単にできる事ばかりであることも分かった。半信半疑であった僕も、少しずつだがイキイキとできるようになった。―――よかったな、明日から仕事が楽しくなりそう。そんな声が会場中に広がる。人々は、来た時よりも顔の表情が一変していた。僕も同じように来る前よりも気持ちは楽になっていた。しかし、何かわからないが自分ではぬぐいきれないような違和感を覚えていた。
 会が終わり、島崎の本を販売したり、何人かは教卓の前にいる島崎に質問を投げかけたりしていた。参加者はイキイキとした目で島崎に質問をしていた。僕はそんな事できる人柄でもないため、荷物をまとめ会場を後にした。
扉を開け、外に出た時、後ろから声がするのが分かった。島崎が追いかけてきて、帰ろうとする僕を引き止めた。
「田嶋君。来てくれてありがとう」
「いえ。来てよかったです」
「そう言ってくれてよかったよ。真っ先に帰ろうとしてるから、面白くなかったんかと思った。また開催するから来てね」
「あ、はい!」
 島崎は帰る人々に丁寧に挨拶しながら会場に戻って行った。こういうことをできるからカリスマなのか、そう思った。僕もあれぐらいスマートに人とコミュニケーションを取れれば見える世界も変わって来るのだろうか。あらぬ妄想を繰り広げ、考え会場を後にした。
 日曜日のため、至るところに多くの人がいた。群れていると言った方が正しいだろう。みなこの休みというものに命をかけているようだ。家族で買い物、カップルでデート、友達と旅行。羨ましく思った。
 そういえば、家族で旅行に行った思い出があまりない。休日は、父も母も家にいても仕事をしていたのを覚えている。どこか行きたいということも言い出す事ができなかった。夏休みの絵日記も描く内容が無かった。そのため、テレビでやっているニュースの一コマを自分のものとし、描いた。その時には虚しい気持ちになったのだろうがあまり覚えていない。しかし、今思い出す時点でこれは周りの人に対して羨ましいと思っていたのか、と考えると悔しくなる。だが、今は皆が遊んでいる休日に自己啓発へ行き、自分のこれからの勉強をした。遊んでいる人々を出し抜いてやるという優越感に浸った。
 人混みの中スーパーに寄り、値引きされた寿司を買って帰った。

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