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熊の飼い方 23

光 12

 昨日のセミナーのおかげで、今日は会社に行くのが先週よりも少し楽になっていた。しかし、気持ちが変わっただけだった。やはりミスをし、上司に罵倒されることは収まらなかった。結局、島崎と僕は違う人間。昨日、セミナーに来ていた人間も何かしらのやりたいことの為に成功をし、自分に自信のある人達なのだと確信を持てた。
「佐々木くん、この前のプレゼンよかったよ。次も楽しみにしてる」
 そんな声が聞こえた。佐々木は徐々に遠いところに行ってしまっている。疎外感が一層強くなった。
 仕事を終え、今日は飲んでやろうと家の近くのコンビニで缶ビールとパックの梅酒を買い、家に帰った。普通の社会人であれば、誰か仕事終わりに呼んで、上司から誘いがあって飲みにいくのだろう。僕にはそんなことがない。ただ、家に帰り、一人で嫌なことを忘れるだけだ。アパートのポストを覗く。そこにあるのは、風俗のチラシとピザ屋のチラシだけだった。さらに孤独が掻き立てられる。
 暗い部屋に明かりを灯し、ベッドに倒れこんだ。手が自然にスマホに行く。一瞬、心臓が引き締まった。島崎からメールが届いている。
「昨日は来てくれてありがとう。今日の仕事はどうだったかな?少しは楽になったかな?」
この文だけ読めば確実に無視していたが、次の文に少しの驚いて返さざるを得なくなった。
「今度、ご飯に行きませんか?昨日、田嶋くんは会が終わっても晴れない顔をしていたので、何か相談に乗ることがあるなら乗りたいと思って。お節介ならごめん!」
 はっと我に返った。昨日、疑問を残している自分はいたが、それを誰かに見せていないと思い込んでいた。なのに、この男はその自分に気づいている。いや、周りの人はそう思っていないとは限らない。だが、これまで感情をあまり表に出さないように心掛けてきたつもりだ。なのに、この男はそれを見抜いている。僕の中に隠し持っているものを探られるようで恐怖を覚えた。だが、それに反する自分もいた。島崎という男に自分は夢中なのかもしれない。今の僕を変えてくれるかもしれない。
何か嫌な気持ちと嬉しい気持ちが入り混じる不穏な気分だった。

 カップルの休日というのは、こういう場所にくるのだろうか。心斎橋の裏手に入り込んだ場所だった。午前九時三十分、指定された住所を目指し、スマホを片手に進んでいく。人は少なくはないが、僕には落ち着く場所だった。
小道を進んでいくと、街中なのだが草を多く蓄えたベランダを持った店に近づいてきた。店の前のコルクボードにはパンケーキやパスタ、本日のおすすめの料理が、写真と白と赤のチョークで目立つように書かれていた。ベランダの席には誰も座っておらず、店の奥は暗かった。一人では入りがたい雰囲気であったが、待ち人を待たせるわけにもいかないので、意を決して入った。
「お連れ様ですか?」と、大学生くらいの歳のウェイトレスに聞かれた。「そうですが」と言いながら島崎を探す。
島崎の待つ席に誘導された。島崎は、スマホを片手に、こちらに手を振っていた。店内は、外の木漏れ日が入るぐらいで、それ以外の明かりはほとんどなく薄暗かった。店内の客もまばらだった。円形のテーブルに向かい合わせでソファがある場所の壁側に島崎は座っていた。
「遅くなりました。すみません」僕は言って、島崎の向かいに座る。
「全然待ってないから大丈夫やで。何頼む?」島崎は笑顔で答える。
 余裕のある島崎。待たせている店員。「えー、コーヒーで」と、僕はとりあえずドリンクメニューの一番上にあるものを言った。
「砂糖とクリームはどうされますか?」
「無しでお願いします」
咄嗟に出た言葉で、聞き返すことができずに後悔した。コーヒーはあまり好まず、ブラックなど飲めない。
「ブラックなんやな。俺は子供やからブラック飲めへんねん」島崎は少し驚いたような顔で僕を見た。
「そうなんですか」
 飲める、飲めないは別として、島崎にもできないことがあると思うと内心ホッとした。店員が去ったつかの間、島崎は話出した。
「今日は休み?」
「はい。土日休みなので」
「そうなんや。土日基本何してるん?」興味を持ったように島崎は聞いてくる。
「家でゴロゴロするか、本読んでます」
「インドアなんやね。羨ましい」椅子に深くもたれかかり、少しの笑みを島崎は浮かべた。
「いや、外に出たくないだけなんです」僕は素直に笑みをこぼし、答えた。
「お金かからんし、休みって感じでええなあ。俺なんか、家でじっとするの苦手やから外にすぐ出るし、お金かかってしゃーないねん」羨ましそうに島崎は僕を見る。
「その方が僕からすると羨ましいです」
 この男と話すと自然と自分の言いたいことを言ってしまう。基本的に僕は、自分のことを人に話したり、自分の思いを表現することが苦手だ。自分の発言が正しいかがわからなくなるが多い。しかし、この男は言ったことを否定するどころか、肯定してくれる。このような特性を僕は、一度でいいから持ってみたいと思った。
 たわいもない会話をしていると、僕の頼んだブラックコーヒーが届いた。香りが僕らの座っている場所全体をまとった。灰色の陶器に、存在を示すように黒茶色の液体が入っている。飲めないというのにいかにも美味しそうに見える液体は、微かな湯気を立てている。
「実はブラックコーヒー飲めないんです」そんなジョークを交えて言える人間ではなかったので、口元に陶器を運んだ。
気持ちをよくする香りとは裏腹に、口にした液体は口の中で苦味を充満させた。苦いと意識していたため、少しだけ口に加えたが飲み込むことが困難だった。熱い液体が食道を通り、胃に流れ込んでいく。
表情は変えず、陶器を元の場所に戻した。その一連の流れが終わると、島崎は何かを思い出したように言葉を発した。
「あ、本題に入らなな。田嶋君、この前のセミナーどうやった?」
「すごく為になりました」下を向きがちに僕は答えた。
「どんなところが?」
「え、あ、あの、仕事に対する姿勢とか、上司との接し方とかですかね」
「なるほど。今週はそれが実行できた感じする?」顎に手をやり、自信なさげに質問をしてきた。
「あ、はい。できたつもりです」
島崎の努力を無駄にはできないし、思ったように実行できなかった後ろめたさで、誤魔化すように答えた。
「そうか。なんかあんまり今回のは上手くいかんかったなと思って。それに、田嶋君満足そうやなかったなと思って」気を使いながら話しているのが読み取れた。島崎をかばう言葉を考えたが、出てこなかった。僕がどう声を発していいのかわからなくなった。
間をとりもつように島崎が話し出す。
「いや、田嶋君が悪いんとちゃうで。僕の努力が足りんかっただけで」
「そんな事ないと思いますよ」
 挑戦していること自体、セミナーを開いていること自体素直にすごいと思った。僕に出来ることではない。仕事に嫌な思いをしているだけで僕は、負けていると感じていた。島崎は僕に気を使わせてしまったことの後悔なのか、マグカップを手から離さなかった。
「俺な、実は社会人なって入社六ヶ月ぐらいで、会社休んだんよな。心が病んでもて、病気になって。自分に限界を感じたんや。俺なんも出来へんなって。大学時代は留学も行ったし、色んな事に挑戦したし、社会でても余裕やろと思とってん。でも、社会はそんなに甘なかったわ。仕事でも上手くいかへんし、プライベートでも家でゲームするか、飲み歩くかで。どうしようもなかったねん。俺こんなんで八方美人やから、親友って呼べる友達あんまりおらへんし、彼女も当時おらんかったから相談できる人もおらんかってん。やから、自分の中でどんどん悪い方悪い方想像してもて。そっから、会社のこと考えたら頭がぐるぐる回って、吐き気して。それでも頑張って会社行かなと思って、体はボロボロで。そっから会社にも行けんくなってん。家でずっと引きこもっとてん。ごめん。こんな暗い話して」島崎は暗い顔から明るい顔に取り繕った。
「いえ……」
 正直驚いた。動揺を隠せなかった。
島崎の話を聞いている時、世界がこの世で二人しかいないように感じられた。広い海の真ん中、二人しか上陸できないような島の上で、風も一切ない場所で話しているみたいに。島崎みたいな人は、社会に認められ何不自由なく暮らしていけるものだと思っていた。そんな人が病気になったりするのか。失敗したとは聞いていたが、ここまで苦しい思いをしているとは思わなかった。では、なぜ今このように活力に溢れるように暮らしているのだろう。そんな疑問が生まれた。
「なぜ、復帰できたのですか?」気がつけば言葉が先に出ていた。
 僕は、今の状況を話した。性格が暗く、人間関係が築きにくいこと。同期との差が開いていること。パワハラを受けていること。聞いてもらいたかった。ここにしかチャンスはないと思った。すがるような思いで話していた。その間、島崎は相槌を打ちながら、時に寂しい顔をして僕の目を真剣に見ているようだった。僕は、人の目を正面から見ることができないため、俯き、時々島崎の顔を見ながら話した。一つ一つ噛みしめるように。
「それは苦しいな。やからセミナーの時、浮かない顔をしてたんやね」頭を何回か縦に振り、島崎は言った。
「はい」
 スッキリした気分だった。誰にも救われないと思っていた。しかし、話しただけで体の中にあった、沈殿物が体からするりと抜けるようだった。こんな経験は初めてかもしれない。今まで悩み事があっても人に話すことは滅多になく、自分の中でしまい込んでいた。やはり、排泄物を出すことは人間にとって必要なことであると改めて感じることができた。だが、解決策はまだ見つけられていない。だから、より一層解決策が知りたくなった。
「田嶋君。世界は何でできているかわかる?」真剣な眼差しで島崎は僕を見た。
「わかりません」僕は困った顔で言った。
「じゃあ、ライブとかコンサート行ったことある?」
「ないですね」
「んー、じゃあテレビは見たことある?」少し困ったように島崎は言った。
「はい。それはあります」
 島崎は安堵の顔を浮かべ続けた。
「じゃあ、なんでテレビに出ている芸能人や歌手があんなに輝いて見えるか分かる?」
 哲学的だな、と思った。何を意図して聞いているのか分からなかった。質問攻めにたじろいだ。
「あ、もう時間や。ごめん。今日も昼からセミナーあるから打ち合わせしてくるわ。さっきの質問考えといて。また聞くからな」島崎はそう言うと、お金を置き、急いだように立ち去って行った。島崎は忙しそうで、やはり人生が楽しそうだった。先ほどの共感は薄れつつあった。
 僕は、残ったコーヒーを飲もうとした。ひと口しか口をつけていないので、置いておくのも勿体ないと思い、飲むと温かいのに比べると格段に不味かった。頭のモヤモヤと、口の中のモヤモヤで訳が分からなくなった。
 周りを見渡すと人が多くなっていた。ここに一人でいてもすることがなく、スイーツを食べたい気分でもなかったので、残ったコーヒーを半分程飲んだところで席を立ち、会計を済ませて店を出た。

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