発達障害とその理解について〜いくつかの支援の視点から〜

 発達障害児の支援ついては、さまざまな立場から研究や実践が進んでいる。学校教育、放課後等デイサービズ、大学などの諸研究機関など。しかしこれらが連携することはまだまだ先のことであり、支援を必要とする子供や保護者に対しては、手を挙げないと支援されない現状である。

 そのため支援が必要な児童や家庭は、かなり精神的にも、肉体的にも危険度の高い状態が維持されていると言える。そして、その状況下で支援を依頼することがいかに困難なことであるかは、当事者の様子を見ればすぐ分かることだろう。

 以上のことから、ここでは発達障害児の支援に対して、私なりの知見を整理していく。自身の経験から、発達障害児に対する適切な支援のアプローチのカテゴリーについて整理し、それぞれの場所でどのような支援が必要とされるかを考えていく。

1、1次支援者(当該児童)

 1次支援者は、言わずもがな、発達障害を有する子供達である。それぞれの家庭に1人ないし複数人存在するケースもある。まずはこの子たちのアプローチを考えていくべきであるし、まだまだデータも少なければ成功例も多く見込まれる年齢である。適切なアプローチで支援を行えば、より社会の中で過ごしやすい人生を送れるのではないかと考える。

 アプローチの方法としては、とにかくその子の特性を見極めることである。改善点や課題を挙げることを目的にするのではなく、現在の姿をきちんと受け止める必要がある。その際、心理などの客観的なデータを用いても良いが、保護者の同意が必要になることが多いでの、難しい場合は主観的で良いのでアセスメントすること。どのような傾向性が強いのか、何に関心があり、どんな時に機嫌を損ねるのか。子供はたくさんのメッセージを発信しています。そんな声にならない言葉を受け止めていこう。

2、2次支援者(当該児童の家族・特に保護者)

 2次支援者は、発達障害の子供を抱える家庭である。保護者や親戚など、様々なケースがあるが、多くは親が該当することが多い。教育現場に携わって感じたことは、この2次支援者に対してのアプローチが非常に希薄なことである。早期の段階で(就学相談など)療育センターなどに繋がった場合ですら我が子について悪戦苦闘しているのに、小学校段階になってやっと医療などに繋がるケースも少なくない。

 発達障害を抱える人には、本人独自の感じ方や受け取り方がある。多くの人にとって当たり前でもという言葉は通用せず、それぞれの特性に合わせた形で支援が必要になってくる。早期に発達障害と発見できてないケースでは、失敗や嫌悪感を経験しすぎていることが多い。こうなると、成功体験を積み重ねることは何倍もの労力を必要とし、何より本人にかなりの負荷がかかってしまう。なので幼少期から、医療や福祉機関に繋がる中で、たくさんのデータを取ることが必要になってくる。社会に出るまでに、どれだけのデータを蓄積してあげるかが非常に重要になってくる。

 一方保護者の方は、そのような非日常のような毎日が常日頃から繰り返されており、多くのケースで保護者にも心理的・福祉的なケアが必要になってしまうことが多いように感じる。24時間彼ら彼女らと過ごす生活は、ピーンと張り詰めた糸が今か今かと切れるのを待つかのような日々である。この糸が切れては誰も助けてくれない。ただしここまで張り詰めていることも分かってくれない、助けてくれない。非常に危ない状況である。このような中で過ごす子供達が、落ち着いて過ごすことは到底難しく、ましてやセンサーが敏感な発達障害児なら尚更である。子供の支援を行うために、保護者の支援を行う必要性は、この辺りにあるだろう。

 3、3次支援者(学校・地域社会など)

 ここでは、発達障害児が日常的に過ごすような環境にアプローチしていく。本人、家族、その次は社会。すなわち学校や地域である。学校教育の中での発達障害児への理解はまだまだ進んでいない。教員の中でも経験や知識にばらつきがあり、ましてや指導の方法などは体系化されていないと言ってよいだろう。多くの教員は、昔の荒れた時代の児童の関わり方について説明され、同じようにやれば解決するだろうといった目線で現場を見ている。或いは1年間何とか進級できればよいといったその場しのぎである。

 しかし現場は火の海である。発達障害を抱える児童は泣き叫び、暴れ、時に他人に被害を与えてしまう。同じクラスの児童は怯え、心穏やかな学校生活はおろか、学習の機会を保障することすら危ぶまれる。担任の先生は精神的にすり減り、保護者との連携が上手くいかず、他の先生の助けを呼ぶことが難しくなり、叱責が増えてしまう。このようなクラス、学校をどれほど見てきたことか。その子の特性を理解するだけで分かり合えるはずの環境が、荒野のようになってしまっている様子がどれだけあったか。しかし罪は誰にもない。あるのは互いに解決できないという現実のみである。

 そしてこれが時に、公園などの地域に関係することがある。そうなると、理解を得ることはより一層難しくなる。大声で叫んでいる。友達を叩いている。人の家に勝手に入ったり、物を勝手に動かしたりなど、一見すると近所のおじさんに大声で怒鳴られそうなことばかりである。しかし、子供に罪はない。ここでどなることは、本人たちのトラウマを育み、地域社会に還元できない子供を育ててしまうことになる。地域の中にも、発達障害についての理解を深めていく必要があり、理解が進んだ環境で育つ子供達は、必ず豊かな心を育んていくに違いない。

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