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子どもを見とるということは,その子との物語を紡ぐということかもしれない。

「子どもを見とるとはどういうことか?」

朝,3階にある教室まで向かう途中,何人かの子とすれ違う。

A「おはようございます」ぼく「おはよう!行ってらっしゃい!」

B「おはようございます」ぼく「おはよう!○○ちゃん(妹)熱下がった?」

C「…」ぼく「○○ちゃん,おはよう」C「…(恥ずかしそうにどこかに行ってしまう)」ぼく「アハハ」

D・E「せんせぇー」「まぁ焦るでない。今日は,持ってきておる。」

F「おはようございます,あの…」ぼく「君が忘れたのは金の帽子かな?銀の帽子かな?それとも,この紅白帽子かな?」F「あぁ,そう!これ!」

教室に入ってから,ふと,やり取りを振り返る。
そして自分が,一人一人に違った言葉をかけたり,違った関わり方をしていることに気付く。
その時に,これまであまり分からなかった,「子どもを見とるとはどういうことか?」ということに,少し触れられた感じがした。

ぼくがかける一言は,その物語をすすめる一翼を担っている

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1月の12・13日に,新宿で開催された「ジェネレーター入門講座」というものに参加をした。
(何それ?という疑問については,話すと長くなるので会った時に直接。)
その日から,身の回りのものの見方が変わるくらい,心が揺さぶられる2日間だった。
この中で,「歩く」「集める」「つかむ」「語る」ということに取り組んだ。
とにかく,新宿の街を歩いて,シグナルを集め,つないで,語る。
基本的にはそれだけなのだけれど,これがめちゃめちゃ面白い。
ぼくは,実際に出会った「鳥を飼う美女」に触発されて,その他のシグナルとつながった物語を語ったのだった。
このnoteを始めようと思ったのも,「語る」ことの価値をこの2日間の中で実感したからだ。


この経験を,教室に持ち帰ると,いろいろな物語がみえてくる。
あの子の行動と,
この子の表情がつながる。
あの子が以前書いた作文が関わりが見つかる。
この子の道徳の授業での発言の奥に秘められた願いを感じる。
点と点が,線になる。
以前よりも,より鮮明に物語が見えてくる。
そして,ぼくがかける一言は,その物語をすすめる一翼を担っていることに気付く。
その子の物語を邪魔しない言葉を,慎重に慎重に選ぶようになった。

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ぼくは今まで,自分の物語の中でしか子ども達を見ていなかった

これまでぼくは,「子どもを見とる」とかいうことが皆目苦手だった。
どんな話を聞いても,本を読んでも,いまいち腑に落ちていなかった。
そんなぼくだから,
子ども同士の揉め事の仲裁に入ったけれど,全然力になれず,仕舞いには
「先生,全然私たちのこと分かってないよね!」
ということで仲直り(もちろんぼくへの信用はガタ落ち)をしたり。
授業を参観していただいた後に,
「なおさんが来て,それまでの子ども達の話し合いが止まっちゃったの気付いた?」
というフィードバックをもらったこともある。
つまり,ぼくは今まで,自分の物語の中でしか子ども達を見ていなかったのだ。


目は欺くことがある。視覚に頼るな。感覚を研ぎ澄ませ。

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このことに気付くいて以来,前よりももっと「集める」ということを大切にするようになった。
具体的には,メモ帳を常に持ち歩いて,気付きをジャンジャン記録している。
そして,B5の大学ノートと,このwebサービス"note"にまとめている。
また,5~6年続けている"振り返りジャーナル"の価値も,再認識した。
確かに,情報がたくさん有りすぎて,処理するのは大変だけれど,
情報をインプットして,目を閉じると,物語がおぼろげながら見えてくる。
とはいえ,まだまだ修行の道半ばである。
金曜日も,ある子に声をかけるタイミングを逸してしまい,反省した。

“Your eyes can deceive you. Don’t trust them. Stretch out your feelings." 
目は欺くことがある。視覚に頼るな。感覚を研ぎ澄ませ。(オビ=ワン・ケノービ)

子どもとの物語を丁寧に紡ぐ。
そのことを,意識的に取り組んでいきたい。

今日も,お読みいただきありがとうございました。

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