見出し画像

「1万kmを旅する絵本」と娘の物語

リビングのはじっこ、窓辺の小さな陽だまりのなかに、娘の本棚はある。ここはわたしがこの家で一番の好きな場所だ。

本棚の前に体育座りをして、並んだ背表紙を指でなぞると、絵本1冊1冊が愉しげに語りかけてくる。絵本のなかの物語。そしてそれに出会った頃の、娘の物語を。

すこし前、今年の夏の話だ。

その日迎えの時間に幼稚園へ行くと、出てきた娘の手には、小さな白いプラスチックカップが大切そうに握られていた。どうやらヨーグルトの空きカップらしい。中を覗くと、濡れた綿に黒々とした種が一粒くるんである。

「なんだろうね」

「えーと、わかんない」

何の種だかわからない。けれど、種ならばきっと芽が出る。わたしたちはカップを大切に持ち帰り、毎朝せっせとカップの綿を水で湿らせた。

すると数日後、おずおずと芽が出てきた。黄緑色の柔らかな芽。慌ててスーパーへ行き、植木鉢と園芸用の土を買ってくる。狭い玄関で背中を丸め、カップから鉢へと慎重に苗を植え替えていると、その横を掃除に来ていたお手伝いさんが通り掛かった。

「それ、フリホーレスじゃないかしら」

フリホーレスはメキシコでよく食べられるインゲン豆だ。彼女によれば、この国の幼稚園や小学校では、フリホーレスの種を植えるのが夏の定番の課外活動だという。日本の朝顔を思い出し、夏ってどこでもそういう季節なのね、と勝手に納得する。

そうか、これは豆なのか。控えめさを早々に脱ぎ捨て、元気よく土から飛び出したその芽を見ていたら、幼いころに読んだ絵本の物語が頭に浮かんだ。豆の木がぐんぐんと空まで伸びて、少年が登っていく話。そう、『ジャックと豆の木』だ。

日本にいれば、最寄りの本屋か図書館で思い立ったその日のうちに、絵本が手に入る。ネットショッピングを使っても、翌日には郵便受けに届くだろう。

けれどここは、遥か1万km以上離れたメキシコだ。ノートパソコンを開き、インターネットで『ジャックと豆の木』を注文した。届くまでおよそ3週間かかる。

暮らし初めはどうしても慣れなかったこのタイムラグを、いまのわたしは案外気に入っている。絵本が届いたとき、娘はどんなふうに喜ぶだろう。そうやって想像しながら過ごす3週間は、サプライズの仕掛け人になったようで、毎回わくわくする。


リビングの窓際に置かれたフリホーレスは、勢いよく伸びた。標高2,200mを超えるこの街の太陽光は、光合成のスピードさえ加速させるのかもしれない。娘は毎朝、寝ぼけ眼で起きてきてひとしきりぐずったあと、我に返ったように植木鉢へと駆けていく。

「おまめの木が大きくなるには、お水と太陽さんが必要なんだよ」

「この葉っぱは最初に出たから、最初に落っこちたんだって」

「お水をたくさんあげすぎたら虫さんがいっぱい来たねえ」

しばらくして、重力に耐えきれないほどにまで茎が伸びると、今度は支柱が必要になった。割り箸をガムテームで繋ぎ合わせ、茎を軽く巻き付ける作業を、なにやらごにょごにょと相談しながら、夫と娘のふたりでやった。


そして、育てはじめておよそ3週間が経って、夫がその日届いたばかりの本を持って帰ってきた。

「娘ちゃん、おまめの本が届いたよ!」

そう言って絵本を見せると、「おまめの本、おまめの本!!!」と大喜びでソファへ走り込み、わたしも早く隣に座るようにと手招きする。

「娘ちゃんの豆の木も、ぐんぐん伸びてるでしょう。この木がもっともっと伸びて、空まで伸びたらどうなるかな。」

そんなイントロダクションをしてから、読みはじめた。

2歳半の娘に、ジャックと豆の木は正直すこし難しい。それでも娘は、物語のはじまりからおわりまでわたしのそばから離れず、真剣に聞いていた。ジャックが豆の木を登っていき、そこに大きな城が現れ、鬼が登場すると、「うわあ」と声をあげて驚いた。

その日の夕飯は、『ジャックと豆の木』の話でもちきりだった。「娘ちゃんは、豆の木を登らないよ。木を登って行ったら鬼がいるんだよ」フォークにおかずを突き刺したまま鼻の穴を膨らませ、そう興奮気味に話す姿を、夫と2人で笑いながら見守る。

一粒の種から出た豆の木が、娘に自然科学を教えてくれた。

一冊の絵本が、そこから先の想像の世界へと、道案内してくれた。

上下二段の棚に並んだ絵本1冊1冊にはみんな、こんな物語が詰まっている。日本で生まれ、生後半年でメキシコに来た娘の、かけがえのない毎日の物語だ。

「本が届いたみたいだから、取りに行ってくるよ」

夫がそう言い残し出かけていく。娘は遊びを中断して、急いでキッチンにいるわたしの元へ走ってきた。

「ねえ、こんどはなんの本が届いたの?」

早く見たくてたまらないのが、そわそわとした様子から伝わってくる。なんの本が届いたんだろうねえ、お父さんが戻ってくるのが楽しみだねえ、と答えて、さきほどおやつを食べ終えた皿を洗う。

今度の絵本には、美味しいおまめのスープが出てくるよ。大きなお鍋にぐつぐつおまめを煮るんだよ。娘ちゃんのおまめの木にも、ちゃんとおまめがなるかな。なったら一緒にスープを作ろうね。


ーー1万kmの旅をしてやって来てくれる絵本たち。わたしたち家族にとってそれは、ありふれた毎日を温かく照らしてくれる、燈火のようなものなのかもしれない。

この記事が参加している募集

子どもの成長記録

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?