【インタビュー】メキシコ国立バレエ団プリンシパル・二瓶真由子さんが「踊り続けて辿り着いた場所」
今年11月、メキシコシティ中心部にあるオペラハウス「ベジャス・アルテス宮殿」で、メキシコ国立バレエ団の今季4回目となる公演が上演された。演目は『カルメン』。自由奔放な女性カルメンとまじめな兵士ホセの恋物語が描かれ、世界中のバレエファンから愛される作品だ。
主役カルメンが舞台に登場すると、劇場の温度がわずかに上がった。黒髪にほっそりとした肩。指先の繊細な動きや魅惑的な視線、ダイナミックな跳躍。そのひとつひとつに、ホセだけでなく観客までもが魅了されていく。
メキシコシティのベジャス・アルテス宮殿で上演された『カルメン』(写真提供:二瓶真由子)
このカルメンを演じる女性こそが、メキシコ国立バレエ団プリンシパルの二瓶真由子さんだ。彼女はどのようにしてメキシコに辿り着き、いま何を想い踊るのだろうか。いくつもの孤独を乗り越え、道なき道を進んできた彼女のバレエ人生を取材した。
近所のお姉さんがきっかけでバレエに出会った
真由子さんは、1985年に大阪で生まれた。バレエをはじめたのは3歳のとき。近所のお姉さんがきっかけだったという。
「家の近くにすごくきれいでスラっとしたお姉さんが住んでいて、その方がバレエを習っていたんです。バレエを習ったら自分もあんな風になれるんじゃないか、って。それがきっかけでした」
母親に連れられ、大阪府茨木市にある「ユアサバレエスタジオ」でバレエを習い始めた。「一度始めたら簡単には投げ出さない」というのがご両親との約束だったという。週1、2回から始めたレッスンは、小学校3年生でコンクールコースに移ると徐々に増えていき、多い時で週6回にまでのぼった。
コンクールコースに移ってからは学校から帰ると毎日のようにバレエ教室に通った。(写真提供:二瓶真由子)
17歳で大阪から憧れの聖地・ロシアへ
最初の転機は17歳、高校2年生の夏に訪れた。バレエ教室内のオーディションで選ばれた真由子さんは、ロシア・サンクトペテルブルクのバレエ学校「ワガノワ・バレエ・アカデミー」への留学を決める。
1738年に設立された同校は、世界屈指のバレエ団「マリインスキー・バレエ」の付属校としても知られ、著名なダンサーを数多く輩出してきた名門中の名門だ。
「憧れのダンサーたちがかつて踊った練習場で自分も踊り、テレビでしか見たことのなかったマリインスキー劇場やエルミタージュ劇場の舞台に自分が立っている。そう思うたび、感動しました」と当時の心境を振り返る。
「ワガノワ・バレエ・アカデミー」の歴史ある練習場では、憧れのダンサーたちに想いを馳せながら踊った。(写真提供:二瓶真由子)
苦労した留学生活
一方で、ロシアでの生活は苦労も多かった。最初の洗礼はその寒さだ。大阪で17年暮らしてきた少女にとって、サンクトペテルブルクの気候はどれだけ着込んでも寒い。
気候だけではない。食生活もがらりと変わった。寮で提供されるのは昼食のみで、朝晩は各自で仕度する。
「食事の管理は全然できていませんでした。なにせ親元を離れて暮らすのが初めてで、料理も知らず、酸っぱい黒パンにチーズを挟んだものばかり食べてました。それから最初の頃、やたらと甘いものを食べたくなってしまって。たぶんストレスを感じていたんでしょうね。あっという間に体重が増えてしまいました」
同じレッスンを受けているロシア人の少女たちは皆、信じられないほど顔が小さく手足が長かった。彼女たちとの差は縮まるどころか開くばかり。焦りを感じた真由子さんは無理なダイエットを始め、レッスン中にふらふらになって、先生から怒られてしまったという。
ロシア留学時代。寒さでなかなか身体が温まらず、ウォーミングアップにも大阪にいた頃の何倍もの時間が掛かった。(写真提供:二瓶真由子)
また当時は、今ほどインターネットが普及していなかった。日本の両親と話せるのは、寮に置かれたダイヤル式の黒電話で週に1回1時間だけ。「電話は1台しかなかったので、みんなで順番表を作りました。自分の番になったら、寮母さんのところにある黒電話の前に座って、日本から電話がかかってくるのを待つんです」と、懐かしそうに笑う。
そんな両親との電話でも、洗いざらい悩みを打ち明けることはできなかった。思春期の気恥ずかしさと心配させたくない気持ちで、真由子さんは「大丈夫」とばかり繰り返していた。
バレエ団不合格と日本への帰国
半年や一年で母国に帰ってしまう人もいるなか、真由子さんは約3年間を「ワガノワ・バレエ・アカデミー」で過ごした。留学期間修了を控え、バレエ団のオーディションをいくつか受けたが、結果は不合格。真由子さんは2005年の夏、20歳で日本へと帰国する。
しかし帰国後すぐに、2度目の転機が訪れた。参加したバレエのワークショップでこんな言葉をかけられたのだ。
「メキシコにクラシックバレエを中心に活動する国立バレエ団があります。オーディションを受けて、そこで踊りませんか?」
メキシコでクラシックバレエを踊る?
声をかけてきたのは、メキシコ国立バレエ団で指導する先生だった。
「最初は、メキシコ?と思いました。行ったこともなければ、行こうと思ったこともなかった。メキシコにクラシックのバレエ団があることすら知りませんでした」
けれど、真由子さんはメキシコ行きを決断する。当時はどんな心境だったのだろうか。
「何もわからないけれど、バレエを踊れるのなら行ってみよう、と思いました。きっとロシアでの3年間がなければ、あのときメキシコには行かなかったと思います」
20歳の娘をひとりメキシコへ送り出す。ご両親は心配だったに違いないが、反対はせず、真由子さんを全面的にサポートしてくれたという。
「オラ!」すら知らずに空港に降り立った
ロシアから日本へ帰国した翌年、真由子さんはメキシコへと旅立った。
当時、まだ日本からメキシコへの直行便はない。「オラ!(こんにちは!)」すら知らないまま、ひとりメキシコシティ国際空港に降り立った。迎えに来てくれる人もいない。タクシーでなんとか安いホステルに辿り着き、ベッドに倒れ込んだ。しかし部屋の鍵はかからない。怖くて外に出ることもできずに、その日は空腹のまま毛布にくるまって眠りについた。
翌日、当時バレエ団に所属していた日本人男性ダンサーが、ホステルからバレエ団の練習場まで連れて行ってくれた。ようやく食事ができ、空腹から解放された。部屋を貸してくれる人も見つかり、それから毎日練習に通う生活が始まった。
けれど、スペイン語がまったくわからなかった真由子さんにとって、練習場から一歩外に出れば、そこは「異世界」だった。
「バスの乗り方がわからなくて、毎日タクシーに乗っては、そのたびにぼられていました。住所もうまく言えなかったので、運転手にメモ用紙を見せて行き先を伝えていたんです。考えてみれば、よくあんな状態でやっていけてましたね」
周りが何を言っているか理解できたのは踊っているときだけでした、と当時を振り返って笑う。
入団から2年で「ガラスの天井」の向こうへ
団員たちの反応は概ね好意的だったが、真由子さんがその実力を認められ昇格していくと、態度を変える者もいた。
バレエ団に所属する団員には階級がある。コールド(群舞)、ファーストアーチスト(群舞のリーダー)、ソリスト、ファーストソリスト、プリンシパルと上がっていき、階級によって舞台で踊る役が決まる。
「最初に日本人男性ダンサーの方から『ソリスト以上にはいけない』と、言われました。日本人には無理だ、とはっきり言われていたみたいです」
けれど真由子さんは、入団から1年後にソリスト、その1年後にはファーストソリストへと昇格する。役を待っていた団員からは、練習中に目の前で悪口を言われたこともあったというが、辛くなかったのか、という問いには首を振る。
「忙しすぎて他人に構っている余裕がなかったんです。毎日リハーサルをして、新しい役を覚えて、家に帰って、食べて寝て、また練習に行く。その繰り返しで、深く何かを考える時間はありませんでした。それに、嫉妬はロシア時代にもありました。センターレッスンやバーレッスンの位置でクラス内の順位がわかる。嫉妬されたり、反対に嫉妬したり。そんなことは日常茶飯事でした。今のダンサーはもっとリラックスしているけれど、当時はそんな時代でしたから」
メキシコに来たばかりの頃は、練習場と家をひたすら往復する日々だった。(写真提供:二瓶真由子、撮影:Carlos Quezada)
高かったプリンシパルという壁
入団から1年でファーストソリストになった真由子さんだったが、プリンシパルまでの道のりは容易なものではなかった。
「『なれない』と言われたファーストソリストになれたので、プリンシパルにもなれるのかもしれない、と思っていました。けれど違った。それから自分に足りない経験や表現力を磨くために、映画をたくさん観たり、演技派と呼ばれているバレリーナたちの踊りをYouTubeで観たりして勉強する日々でした」
そしてファーストソリストへの昇格から5年が経った2013年。リハーサルの最中、団員に招集が掛けられた。練習場の中心に団員たちの大きな輪ができる。そこで新たなプリンシパルとして呼ばれたのは、真由子さんの名前だった。
「(プリンシパルに命名されることを)名前を呼ばれるその瞬間まで全く知りませんでした。あのときはとにかくびっくりして、嬉しかったです」
しかしプレッシャーは、やはり大きかった。思うような演技ができずに落ち込むこともあったという。そんなとき、前代のプリンシパルが「あなたがいま感じているプレッシャーをみんなが感じてきたのよ」と真由子さんを励ましてくれた。その言葉で、「代々のプリンシパルが乗り越えてきたプレッシャーなんだ。どんなカテゴリーであろうと一旦舞台に出てしまえば関係ない」と気持ちが切り替わったという。
プリンシパルとして踊った舞台『白鳥の湖』(写真提供:二瓶真由子、撮影:Paulo Garcia)
妊娠、出産、そしてパンデミック
真由子さんに再び大きな転機が訪れたのは、2019年の年明け。妊娠が発覚したのだ。
バレリーナの「産休」期間は個人の判断によって異なるが、真由子さんは妊娠がわかった時点から練習を休む選択をした。バレエから離れることに怖さはなかったのだろうか。
「不思議と怖さはありませんでした。出産を経ても活躍している先輩ダンサーはたくさんいますから。それに変な言い方ですが、妊娠に集中してちゃんと産みたい、と思ったんです」
妊娠中はバレエから離れ、貴重な時間を過ごした。(写真提供:二瓶真由子、撮影:Sebastián Rivera)
その年の10月、真由子さんは無事男の子を出産をした。身体に問題がなければ復帰は3カ月後。最初の1カ月はひたすら赤ん坊の世話に明け暮れた。2カ月目から1人でトレーニングを再開したが、そのときの衝撃をこう語る。
「産後初めて1人で練習場で身体を動かしてみたとき、『もうバレエは無理かもしれない』と思いました。身体の可動域が以前とは比べものにならないほど狭まり、腕すら自分の思った通りに動かせない。ショックでした」
けれど、バレエ団に戻らない、という選択肢はなかったという。「どうやって取り戻そう」ーーそれだけを考えた。
産後3カ月頃から、子どもを保育所に預け、バレエ団の練習に合流した。少しずつ以前の身体を取り戻していこう、という頃だった。
そこに、パンデミックが起きた。
2020年4月、バレエ団は活動の中断を余儀なくされた。保育園も閉鎖され、子どもと家に籠る生活が始まった。「自分の時間を30分でも捻出するのがこんなにも難しいとは、想像もしていませんでした。夜、ストレッチや筋トレをして、YouTubeのオンラインレッスンを観ながら自主レッスンをする日々でした」
パンデミックによる外出自粛期間中、育児の合間を縫ってキッチンでもトレーニングをした。(写真提供:二瓶真由子、撮影:Sebastián Rivera)
バレエ団が活動を再開するまでには丸1年を要した。しかし保育所が再開したのはそれから更に半年後。ようやく以前のように練習に通い、活動ができるようになったのは、今年9月に入ってからのことだった。
いま第2幕は上がったばかり
「オラ!」すら知らずにやってきたメキシコで、真由子さんは「なれない」と言われたプリンシパルになり、今年36歳を迎えた。
「物語を伝えたい。音楽を目で見てもらいたい。目指す姿はずっと変わりません。以前は周りの目を気にして踊っていた気がしますが、今は自分自身としっかり向き合えているように思います」
自分自身と向き合う。それは、弱さもすべてひっくるめ、ありのままの自分を受け容れて、初めてできることではないだろうか。
日本、ロシア、そしてメキシコ。「踊りたい」ーーその想いひとつで真由子さんが突き進んできたこれまでの道のりは、決してもともとあった「道」ではなかった。時に孤独という名の茨をかき分けながら、そのたびに自分を知り、受け容れ、前進し続けたその後ろに、一本の道ができたのだ。そして道の先に待っていた輝く舞台の上に、彼女はいま立っている。
真由子さんのバレエ人生の第2幕は、まだ上がったばかりだ。彼女はこれから、わたしたちにどんな物語を見せてくれるのだろう。晴れやかな笑顔でカーテンコールに応える笑顔のカルメンに拍手を送りながら、想いを馳せた。
メキシコシティ中心部にあるメトロポリタン・カテドラル前にて(写真提供:二瓶真由子、撮影:Omar Z. Robles)
・二瓶真由子さんのインスタグラムはこちら
(トップ画像 提供:二瓶真由子、撮影:Patricio Pimienta)
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