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シンプル、近代、距離。『原研哉著「日本のデザイン」を読んで』

『日本のデザイン ー美意識がつくる未来』原研哉 著
                           初版 2011/10/20

しばらくSNS諸々から遠ざかってた間に、巷では「デザイン」という言葉が氾濫するようになっていた。猫も杓子もデザイン、もしくはデザイン思考。
でも、デザインってそういうことだっけか。大学時代に建築を勉強していただけで、デザインのことはちゃんと勉強してないのでなんとも言えないけど。

そんな感じで、デザインってそもそもなんだっけと考えたタイミングで、昔読んだこの本を思い出した。
今だに、デザインのこともデザイン思考のこともよくわからないけど、建築を勉強していた学生時代にこの本を読んで視界がひらけた覚えがある。
今回はデザイナー原研哉さんが書いた『日本のデザイン』を通して、デザイン思考の話をせず、素朴にデザインについて思考したい。

シンプルの起源、
近代の(「モノ」をつくることから見た)思想、
距離の回復について

目次
 まえがき
  序 ー美意識は資源である
1 移動ーデザインのプラットホーム
2 シンプルとエンプティー美意識の系譜
3 家ー住の洗練
4 観光ー文化の遺伝子
5 未来素材ー「こと」のデザインとして
6 成長点ー未来社会のデザイン
 あとがき

取り上げたいのは、個人的に好きな「2章 シンプルとエンプティ」について。

2 シンプルとエンプティー美意識の系譜

シンプルという言葉について

 まずこの章では、シンプルという言葉が登場する。
ここでは「すっきりしていて潔い風情や簡潔でまとまりのいい状況」を指す。この言葉が頻繁に使われる状況、加えていい意味で使われている状況に着目している。
はたして、この概念はいつ生まれたのだろうかと。

“価値観や美意識として「シンプル」が社会の中に良好な印象として定着したのはいつのことだろうか。” p50

シンプルはいつ生まれたのか。

シンプルはいつ生まれたのか
上記の問いはわりとあっさり答えられてしまう。
「150年ほど前に生まれた」と。

この150年ほど前というのはどういう時代なのか。
いまから150年前は1568年。日本の年表では戊辰戦争、そしてこの後に明治維新がある。日本の近代のはじまりである。
この本の論旨では、世界の近代もおよそ(おおざっぱすぎるかもしれないが)このあたりだという認識でいいのだろう。

シンプルは150年前、つまり近代が生まれた頃、に生まれた。

石器はシンプルかープリミティブから複雑へー

では、シンプルとはなんだろう。石器はほとんどが単純な形をしている。これはシンプルなのだろうか。ものづくりがまだ複雑ではなかった時代の物はシンプルだったのか。

“石器時代の石器はそのほとんどが単純なかたちをしている。” p50

“石器時代の人々は、これらを決してシンプルとは捉えていなかったはずである。シンプルという概念は、それに相対する複雑さの存在を前提としている。” p51

“シンプルとは、複雑さや冗長さ、過剰さとの相対において認識される概念である。” p51

石器やその頃の単純な造形物はプリミティブなのだと言う。

複雑とは何か。 

どうやら「複雑」が鍵のようである。
複雑とは何か。

“人間のつくり出す物はプリミティブから複雑へと向かう。文化は複雑から始まった。” p51

“およそ人間が集まって集団をなす場合、それが村であれ、国であれ、集団の結束を維持するには強い求心力が必要になる。” p52

“世界が「力」によって統治され、「力」がせめぎ合って世界の流動性をつくっていた時代には、文化を象徴する人工物は力の表象として示された。力は人の世界に階層を生み出し、王や皇帝を頂点とする力の階層は、紋様や絢爛さの階層を生み出し、そのような環境下では、簡素さは力の弱さとしてしか意味を持ち得なかった” 56

この考え方はかなりおもしろいなと思いました。
人ともの(対象)の関係に力がはさまれている。ものは力の表象である。

殷王朝の青銅器やルイ5世の王家の椅子も複雑な形をしている。
写真などはうまく見つけ出せなかったのだけど、気になる人は各自検索等してもらえばいいと思う。
たしかに、いろいろスゴそうな感じ出てます。

人が座るということを考えた時には必要のない機能が装飾としてしつらえてある。
民衆がつくっている「もの」はまた別なのかもしれない。
しかし、いわゆる「ものづくり」として注力されていたのは、時の権力者の「力」を表象する「もの」であったと。
そして、人類のつくるものは2000年以上この複雑であった。

シンプルの誕生。近代とデザイン。

『近代社会の到来。人間が等しく幸福に生きる権利を基礎とする社会。物は「力」の表象である必要がなくなった。椅子は王の権力や貴族の地位を表現する必要がなくなり、単に「座る」という機能を満たせばよくなった。
合理主義とは物と機能との最短距離を志向する考え方である。すなわちこれがシンプル。

権力と深く結びついた複雑な紋様を近代の合理性が超克していく中に生まれてきた。
シンプルとは、人と物と機能との最短距離を計り直した結果なのである。

こう聞いて思い出すものがある。
近代建築の巨匠、ル・コルビュジエがつくりだしたモデュロールだ。

モデュロール(Modulor)とは、フランスの建築家ル・コルビュジエが、人体の寸法と黄金比から作った建造物の基準寸法の数列である。Modulorは、フランス語のmodule(モジュール・寸法)とSection d'or(黄金分割)から作ったル・コルビュジエによる造語である。wikipediaより


はじめに戻るが、こういうのが近代の思想/価値観そのものなのだろうなと。

モデュロールっておもしろいなと思っていたけど、これも複雑以後の距離を計り直す運動の一つなのかもしれない(年代は150年前とちょっとずれるけど、建築はいつも少し遅いので。笑)


対象の最短距離を計り直す。
あらゆるものへの距離を考え直す。
あるいは最適解を出し続ける。

こういうことがあらゆるところで行われているのではないか。
これはデザインの話だけでなければ、モノの形の話だけでもないのであろう。
150年前からはじまっている近代の思想の話だ。

ここで疑問が湧くのは、万人を包摂した最短距離をつくり続けることはいつまで可能なのか

ちょっと話がそれるが先ほどのル・コルビュジエのモデュロール。
モデュロールは平均身長6フィート(6フィート≒183センチ)のイギリス人の体型をモデルに作成されたよう。 この6フィートを基準寸法として様々な設計おこなってたのだと。

学生時代にフランス旅行をしていて際に、サヴォア邸に行ってコルビュジエが設計した椅子に座ったことがある。

これがその当時(10年前!)に撮ったコルビュジエ設計のシェーズロング。

モデュロールに即した設計をされたこの椅子は約180cmの身長に合うように作られていた。
その時、一緒に旅行をしていた友人の身長が180cm、僕は170cm。

180cmの友人はその椅子にジャストフィットしていたらしく、えらい興奮していたのを覚えている(僕は、「そうか」なんてことを思ってた気がする)

モノと人との距離を計り直したとして、人間の身長を180cmにしてみたとしても、全員が180cmなんてことはありえないことは自明である。
そして、その自明なことに多くの人が気づいてしまって

「自分、180cmも身長ないんですけど!!!」

と発信できてしまう時代がきてしまったとしたら。

そんな時代に対応する方法はまったく思い浮かばないけど、
150年前にはじめた「人と対象との最短距離を測ること」についてはもう少し考え直してもいいのかもしれない。

距離の回復、距離の測りなおすこと

ここで一旦迂回してみる。
作家・思想家 東浩紀さん率いる「ゲンロン」より発刊している
批評誌ゲンロン7の巻頭言から。

距離の回復について

現代はポピュリズムの時代である。ポピュリズムの本質は「近さ」にある。ポピュリズムが卓越した時代においては、対象と距離を取ること、それそのものが悪と見なされる。
政治家も大学人もジャーナリストも、「当事者」に「寄り添う」ことにしか、そして「いまここ」の問題に反応し「立ちあがる」ことにしか、正義の根拠を見いだせなくなる。
『ゲンロン』は、そのような時代精神に抗い、ふたたび距離の価値を取り戻そうと目論む・・・。

少しデザインとは離れてしまっているが、ここで書かれていることはとてもおもしろい。シンプル(距離の近さ)に抗うこと。

最短距離が現代では近くなりすぎているのではないか。
あるいは、最短距離がはたしていいことなのだろうか。


距離感覚が誤っている、もしくは一人一人によって距離が異なる時代(つまりこれがポストモダンなのであろう)にはデザインができることは何か。

最短距離をつくり続けることも必要な一方で、対象との距離を挟み込むような行いがあってもいいのでは。

欲望のエデュケーションについて

この本の話から遠く離れてしまった。
最後に「まえがき」に戻ってみる。

まえがき

p ⅱ
かつて僕は、「欲望のエデュケーション」である、と書いた。製品や環境は、人々の欲望という「土壌」からの「収穫物」である。よい製品や環境を生み出すにはよく肥えた土壌、すなわち高い欲望の水準を実現しなくてはならない。
よく考えられたデザインに触れることによって覚醒がおこり、欲望に変化が生まれ、結果として消費のかたちや資源利用のかたち、さらには暮らしのかたちが変わっていく。そして豊穣で生きのいい欲望の土壌には、良質な「実」すなわち製品や環境が結実していくのである。

欲望のエデュケーションってなんだろうと思っていたのだが
例えば、これからエデュケーションが必要なのだとしたら
キョリの回復も手段の一つなのではないか。

では、どんなことを手がかりに距離を挟み込めばいいのか。

正直、まったくわからないけどちょっと考えてみようと思います。
今回はこの辺で。

途中から、この本とは関係ない話になってましたが(笑)
シンプルの話だけでなく、
日本のエンプティネスや観光の話などとてもおもしろかったです。
興味があればぜひ。



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