シンちゃんパパ
その質問に何と答えるべきか、僕は究極の選択に迫られていた。
質問の内容はこうだ。
「お名前、なんていうんでしたっけ?」
ここは幼稚園。
そこで、名前を聞かれているのだ。
しかし、僕は用も無く幼稚園を訪れて職務質問されたわけではない。
もちろん、自分自身がまだ幼稚園児と勘違いして登園してきたわけでもない。
僕には2歳半になる息子がいて、月に数回、近所の幼稚園の2歳児クラスへ連れて行っているのだ。
しかし、幼稚園の世界は女性社会である。
未就学児は1人で幼稚園へ登園して授業を受けることはできないため、親が同伴するのが常識なのだが、幼稚園に来る親は95%がママさんなのである。
そんなアウェイな場所で緊張気味にしていた僕は、周囲の人の目を気にしながらも
「俺は何も気にしていない、
アウェイだなんて感じていない、
どこのフィールドでも自分は自分のはずだ・・・」
と、通常通りの表情を崩さないよう、細心の注意を払いながら園内を進んでいた。
そこで、何度か顔を合わせたママさんを見つけた。
しかしアウェイな空間で意気揚々と自分から話しかけるのは、流石に調子に乗り過ぎている気がする。
不要な注目を集め、要注意人物として職務質問候補者に名を連ねるわけにはいかない。
ここは、明らかに目があったり、向こうから挨拶されたときだけしっかり笑顔で挨拶を返すことにしよう。
ママさん「あ、こんにちはー!」
・・・挨拶されてしまった。ヤバいヤバい。
すぐに挨拶を返さないと。
KJ「あっ、ぉはよぃざぃやす」
・・・間違えた。
せっかく挨拶をしてもらったのに、
「いや、今は午前中なので挨拶はおはようですけど?ww」
と、挨拶マウントをとった形になってしまっていた。
緊張のあまり、頭の中で何度もシミュレーションをし過ぎて、自分の中で挨拶の言葉が完全に固定されてしまい、相手の挨拶の言葉に合わせることが出来なかったのである。
しかも、それを挨拶しながら反省してしまい、挨拶に無駄な後ろめたさがブレンドされ、元気とは程遠い挨拶になってしまった。
失敗から始まったトーク。
しかしその後もママさんからの質問は続き、その質問に僕の頭は警鐘を鳴らしていた。
「お名前、なんていうんでしたっけ?」
お母さんの目線は僕へ向いているため、質問の相手は僕だろう。
であれば、普段なら苗字を答えるのだが、その苗字を持つ人物はこの空間に息子を含め2人もいる。
となると、苗字を答えても、誰か1人を特定するための呼称とはなり得ない。
ならば、僕のファーストネームを答えればいいのか。
しかしこれは最も愚かな選択だろう。
空気がまだ暖まる前の合コンで、警戒心が溶けない中でみんな苗字で自己紹介している中、
「KJでーっす☆
今日はマジで彼女作っちゃいたいなって思ってます、ヨロシクー!」
と言っているのと大差ない。
こんなことを32歳で言ってしまおうものなら、もうネット上の世界にしか居場所はなくなるだろう。
しかし、僕の思考は停止しなかった。
ここは幼稚園。
主役は子供たち。
あくまで親は脇役であり、主役がまだ満足に会話出来ないのであれば、僕に求められているのは息子のシンちゃんを精一杯プロデュースすることなのではないだろうか。
となると、この質問の答えは、息子のファーストネームになるのだろう。
よし、いける!・・・
KJ「シンちゃん、・・・です!」
ママさん「あー、そうだったシンちゃんだ!
シンちゃんおはよー!」
やった。
正解だ。
会話として違和感のない刹那の待ち時間の中で、よく正解までたどり着けたものだと自分を褒めた。
今夜はすき焼きにでもしようか。
ママさん「今日はシンちゃんパパが連れてきてるんですねー!」
KJ「そうなんですよー!」
難問を解いた僕は自信をつけ、パパとしてママさんとしっかり対応することができた。
その日の幼稚園の帰り道、僕はあることに気づいた。
どうやら、幼稚園などの子供の世界では、親のことは子供を軸にして
「シンちゃんパパ」
「シンちゃんママ」
といった風に呼ぶらしい。
僕は息子が産まれるとき、必死に息子の名前を考え、自分なりに納得できる名前を息子へ命名した。
しかし、僕は息子へ命名したと同時に、自分へも「シンちゃんパパ」という名を息子に命名されていたらしい。
シンちゃんパパは、産まれてから2歳半になる。
オムツはまだとれていない。
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