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死に方を考えていたんだ、深夜。

死ぬ方法を調べたことのない人生はどんなものなのか知りたい。
死にたくならない毎日は、どんなふうに彩られるんだろう。
明日死なないことに疑いのない今日を、どう生きているのか。

伝わらない想いとか、理解ある人の皮を被った顔色を伺う疲労とか、太陽から逃げるようにアクセルを踏み倒す瞬間の乾いた空気とか。
全部どうでもよくなって、そのどうでもよさが染み渡る感覚。しっくりきてしまって、今がその時なんじゃないか、ずっと死にたかったじゃんって。
でも赤信号では交通ルールに従ってブレーキを踏む。速度と一緒に気分も落ちていく。

死にたいという欲望が嫌厭される度に、自分は何故生きているのかという問いに串刺しにされる。

人生で一番死にたかった時は、脳が麻痺してて、目の前が真っ暗で何も見えてなかった。
真っ昼間から死ぬ方法を検索していた。
でも苦しいのは嫌だから、いかに楽に死ぬかを考えていた。

首吊り、リストカット、一酸化炭素中毒、気絶、飛び降り、シンプルに包丁をブッ刺す、睡眠薬の過剰摂取。

首吊り
これは最有力候補だった。そして、実行したことのひとつ。7秒の我慢であの世行きだというネットの情報を頼りに、首に力を込めた。結果、失敗。怖気付いた。無理だろ、7秒なんて、という怒りが沸いた。

リストカット
ドラマとかでよくあるやつ。見るだけで痛々しくて、とても実行しようとは思わなかった。切るだけでも痛いだろうに、そのあと風呂に浸けるなんて死んでも嫌だ。ん、これは矛盾してるか…?

一酸化炭素中毒
村上春樹のノルウェイの森にあったやつ。これは苦しくなさそうだし簡単そうだなぁと思ったのだが、調べてみると、すんごい苦しいんだとか。まず、密閉された空間なんて容易には作れないし、変なタイミングで見つかってしまったら一生寝たきりの可能性があった。でも、死に様が一番綺麗らしくて、その点には惹かれていた。

気絶
んー、これは詳しく書かない方が良さそう。簡単には死ねない方法。後遺症も酷いらしいので、却下。でも、何日も実行に移したやつ。

飛び降り
無理。却下。

シンプル包丁ブッ刺し
包丁を手に取るところまでは何度も何度も試したが、それ以上進めることは出来なかった。包丁の先を自分の胸に向けている時、東京喰種って漫画の主人公が自分に包丁ブッ刺すけど包丁が壊れるっていうシーンを思い出していた。呑気なこと。

睡眠薬の過剰摂取
これもドラマとかで見る。でも、この方法はとっても難しい。市販の薬では効果が薄くて、何百錠(?)も飲まないといけない。そんな飲めへんて。お金も無いし。って理由で却下。でも、死に様は綺麗だろう。眠るように死ねるのかもしれない。


色々調べてみたが、結局、僕は死ねずに生きている。

死にたいと思う回数は格段に減っているものの、やはり、たまーに無性に死にたくなる時がある。

この先何十年も生きていける気がしなくなった時に、たいてい夜なんだけど、あの世行きの道が薄っすらと現れる。
掴もうと手を伸ばすけれど、やっぱやーめたって、伸ばした手で煙草を掴む。

この世に未練ができたことが、僕を足止めしているんだろう。
願望と実行の境界線で揺れる僕の名前を呼んでくれているのかもしれない。

検索履歴にたまに現れる、「自殺 方法」「楽な死に方」という文字の並び。
そうやって調べると、一番上には "心の健康相談ダイヤル" が義務のようにぬるっと座っている。
ダイヤルを回したところで、この淀んだ気持ちに変化があるとは到底思えないし、ありきたりな言葉を並べられて、自己満足の優しさを聞かされるだけ。必要無い。

死ぬほど勇気を出して、死なないために赴いた精神科だって、30分待たされたってのに5分くらい話をして終わりだったんだから。
そのクリニックが良くなかっただけなのかもしれないが、他所の精神科に行く気力は残っていなかった。
気休めを水で流し込んで、何も変わらない願望をただ眺めるだけの生活に終止符を打ったものの、不透明度が下がった死にたさは今も僕の内側にしつこくこびり付いている。


明日も太陽が昇ることを信じて止まない人間は、死にたい夜が明けていく恐怖を知らない。想像もしない。今日も明日も、友人と笑って恋人と寝て、そうやって普段と何ら変わりない循環の中で生きている。正しい循環の中で生きていることに気付きもしない。

死にたいという願望は歪んでいる。
それが、真実。

明日も明後日も変わらず生きて、平均寿命までは生きたいな〜とか言って、歪んでいるものは許さない。
自分に都合の悪いものは信じないし、許さない。
多様性を認める、というおめでたい風潮に自殺願望は含まれない。

僕らの望みは多様性なんかじゃない。

得体の知れないものに寛大な心を持ち始めた社会には、特に考えてもいない「認めよう!」の言葉が膨らむだけ膨らんで、中身は何もない。
気味の悪い僕らの望みは、得体の知れないものじゃないから、はっきりと "悪い" ものだから、認められることは無いだろう。

靴紐を固く結ぶように「まだ死なない」って志しても、一箇所を引っ張られたらスッと解けてしまう。


この世を去るために括り付けた紐を見られた時の、「かまってちゃんなの?」という言葉は今でも忘れられない。
理解し難いものには蓋をして、嘲笑うことしかできないのが人間だと思った。
知らないことは、理解できないことは、可笑しな話に転換される。

「死にたいってツイートしてたらしいじゃん」って酒のツマミにされる。

侮辱のオーバードーズ。
この願望が決して正しいものだとは思わない。
だが、皮肉って笑っていいことではない。
死に方を考えたことがある人には、死に方を考えたことがある人にしか分からない絶望がある。
落とし穴の淵で、今日も生きている。





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