私が「田舎で話し合い」を仕事にする理由を、イマドキの若者と話したら少しわかってもらえた|”空き地”での人生も悪くないぞ

群馬では、梅雨らしく雨天が続いています。先日、近くを散歩していると、「チリン」という風鈴の音が聞こえまして、振り向いた先に紫陽花があり、桃色のアサガオが絡みついていました。雨の中ですが「花火大会」のように見えました。イキモノの共演はいつも美しいものだな、と思いながら。

そんな田舎の美しい景色や文化を、次世代を生きる人たち、子どもたちも味わえると良いなぁと、勝手に思っています。

今のところ、田舎に未来はなさそう

でも、どうやら日本社会が今のままだと、田舎はなくなりそうです。

私の実感値として、公務員時代に、予算と人口減、少子高齢化のリアルを、役所の中でも、地域の現場でも突きつけられた経験がベースとなっています。

これは私が住む群馬県だけではなくて、日本全体の話です。いわゆる「増田レポート」の消滅可能性都市、「京大日立ラボ」でのAIによるシナリオ研究は有名です。
「え…このままだと、田舎ってなくなるんだ…(気づいてはいたけど)」という事態に、私たちは直面しています。

ぜひ本文をじっくり読んでいただきたいですが、その内容を簡単に要約するとこうです。

未来に影響する149の社会要因をAIで計算した。2050年の日本社会について2万通りの未来像を描いた。その結果、期せず判明したことは以下。
・全てのシナリオは、2つのルートに分けられる
・地方分散型 と 都市集中型
・その分岐点=取りかえしのつかないポイントがある
それが今から、およそ7年後(2027年頃)にある。
都市集中型シナリオに向かうためには、このままでオーケー。地方分散型シナリオに向かうためには、ちょう頑張らないといけない。

その2つのルートでいうと、私は「地方分散型シナリオに進みたい派」というスタンスを取っています。

さらに、変化の方向性で言うと、最近、安宅さんらの「風の谷」として言語化してくださっていることに、総論として賛同しています。

「いかに都市との関係を再編し、地方への求心力を発生させるか」という課題。

話し合いでなんとかならんか

そのための手段として、ひとつは、サーキュラーエコノミーやサスティナブルツーリズムなど、テクノロジーや社会制度、組織指標などといった、デザイン的な側面に関心を寄せてきました。

以下は両記事なのでぜひあとで覧ください。


一方で、こうした、デザインが畑でいうところの“戦略や道具”だとすれば、“土壌”も変わらなくてはならないのではないかという問題意識を強くしてきました。ここにおける土壌とは、関係性のことです。生態系、社会文化、組織、生活習慣、コミュニティ。

というのも、こと田舎においては、「瞬間最大風速は強いけど、暮らしに根付かないな。つまり、一時的にお金や集客数はフローけれども、ファンやリピーターなどの信頼がストックされない」ということを、公共政策、市民活動、小さなビジネスで持ってきました。

どんなによい制度設計も、人がそれを一緒によりよいものにしていこうという参加や、納得できる意思決定など「関係性」がなければ、うまく機能しづらいものです。こと「続いていく」ということを考えたときにはそうです。

そこで、関係性を作るための手段として、私が推しているのが、「話し合い」です。そこで、日々の暮らしの中で毎日使う、「聞く・話す」「読む・書く」という、「ことばをつかった基本的なやりとり」の質を高めるような社会教育をしたいと思いました。

田舎の未来は、もちろん話し合いだけではどうにもならないことも多いですが、「話し合いでなんとかならんか」を諦めることはしたくないと思っています。

若者は、田舎と話し合いで育っていない

さて、地方で生まれ育った私にとっては、なくなりそうな田舎を残そうとする活動は、「好きだから」「キレイだし気持ちいいと思うから」で済むのですが、いまどきの若者に対してはそれが、大したお誘いにならない事が多いと感じています。

私は、未来をつくるのは、若者だと思っています。その若者たちに、どう田舎に好奇心を持ってもらうかが課題です。そして、それは一筋縄ではいきません。

なぜなら、少なくない若者が、田舎と言われる地域で生まれ育っても、実際は、私がテキスト情報として知っているよりも、ゲームとインターネットの中で育っているからです。私が抱いているような「田舎でのうれしい実体験」がないことが多いのです。
となれば、彼らが見たことも無い景色を、まちづくりおじさんたちが勝手に残したいと言っても、ピンと来ないのはあたりまえです。

若者は「都市集中型のブレードランナー的未来で別にいいんですけど」と。それに対して、私のようなおじさんが「いやそれはディストピアなんだ」ということを、いくらデータで見せても、なかなか届きづらいものです。そこで、データで説得しても無駄というか、むしろ関係は悪化します。若者としては「あなたの言っていることは、正しそうですね」と。それで帰った後に、「ウザかった」と噂されて、試合終了です。

さらに、つらみを言うと(笑)、「話し合い」によって、「安全な居場所をつくる」「わかりあえない他者と共存する」ということの成功体験がある方は、ほとんどいないと言ってよいほどに、いません。そもそも、そういう教育を多くの私たちは受けていません。「読み・書き」はするのに、「聞く・話す」はナゼ放置?

もはやここまでいくと、「若者を誘って、田舎で話し合いをする」なんて、玉乗りをしながらジャグリングをするようなものにも思えます。見世物にはなっても、それを見て「あれをしたい」なんて思うのは、かなり頭おかしい人かもしれません。

ある若者たちとの関わり

でも、最近、典型的な「イマドキの若者」のグループから、「なんできょうちゃんは、いつも田舎で話し合いなの?」と質問をされました。

その無邪気さにハッとしつつ、「少しでもわかってもらえるように」と願いを込めて、こんな風に話をしてみたら、割といいリアクションを受けたことがあるので、その話をここにメモしておきます。

なお、その前提として私が持っている仮説はこうです。

オジサンたち(カタカナなのは、おじさん的な若者も含む)が欲しいのは、お金や名誉、「俺の〇〇」というモノの所有感である一方で、

今の若い人たちが欲しいのは、影響力や信用、自己有用感、「ぼくらの〇〇」というコトの共有や所属感であるということです。

一概に言うつもりはありませんが、そんな傾向を、多くの人と話していて、ひしひしと感じます。「自分のフォロワーやファンが欲しい」「何かの作品に自分が関わったんだと言いたい」「自分のやってることに、意味が欲しい」。

このことを俯瞰してみると、「オジサンたちの欲求は都会的なのに、田舎にいる。若者の欲求は田舎的なのに、都会に向かうんだよな」と。そんな、ねじれを感じることがあります。まあ、それは雑駁な気づきなので、ボヤキ程度にしましょう。

ともあれ、私が、「イマドキの若者」に話したら、少しわかってもらえた感じがしたのは、こんなお話でした。事情通の方からしたら、ひっぱたかれそうな表現もあるかもしれませんが、「ひとつのものの言い方」としてご容赦ください。

どう生きたいかで、生きる場所をえらぶ

人生をどこで展開するか、その舞台は選ぶことができます。国内と国外。都市と田舎。

その中でも、日本の都市、国外、日本の田舎について話してみようと思います。

日本の都市が「キラキラしたなんでもある工場」だとすれば、海外が「滋養豊かな畑」みたいなもの。そして、日本の田舎は「工場跡地の原野か、空き地」みたいなものなんです。

どれがいい悪いじゃなくて、どう生きたいかで、その舞台を選んだらいいと思います。

①ウェーイって生きたい人|ジャイアン型

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もし君が、さっさと肩書きやお金としての成果を出したければ、あるいは、勝者や成功者っぽくチヤホヤされたかったら、東京に出たほうがラクだと思います。東京じゃなくても、お近くの都市で暮らした方がいいです。ひと・もの・かねが豊富だから。そこには、「ベルトコンベア」があって、それに乗ると前に進むことができます。「どっちがあなたにとって前なのか」を決めることはできませんが、進むことには進みます。私が都市部でサラリーマン、売れっ子塾講師をやっていた時はそんな感じでした。

②安全な道を行きたい人|出木杉くん型

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安定志向か、わかりやすい希望を持ちたければ、私は海外をお勧めします。たとえば、北欧やオランダ、カナダがよさそうだというイメージはあるかもしれません。社会福祉が進んでいる場所です。

私が個人的にいいなと思うのは、南米かマレーシアです。

「俺らの社会では、見たくなくても、希望が目に入っちゃうんだよ。」とはパナマのシティ・オブ・ナレッジではたらく友人の言葉でした。自動的にアガると。そんなん、住みたいでしょ。

また、わたしの友人のAくんはwebエンジニアですが、一昨年にマレーシアに移住しました。仕事は東京で請けて、月収30万円。東京だと、家賃・生活費が月30万円かかる。でもマレーシアに行ったら、仕事は東京の会社から受けるので収入は変わらずに、生活費は月15万円。東京では死にそうでしたが、今はハッピーそうです。いいでしょ。

③ 3つめの道|のび太型

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撮影:ねいくん

わざわざ②で、「海外」というおおざっぱな話をしたのは、「日本」ってどんなところかを、外側から見てみたいからです。

日本は、年老いた減りゆく社会です。もうここには、安全な道はない、と思った方がいいと思っています。下り坂に立ちながらの「安定志向」は、転げ落ちるのと一緒です。厳しいようですが、ここ日本では、ふつうに生きていくこと自体がチャレンジだと私は思っています。3つめの道は、チャレンジャーの道ですね。

さらに、日本の周辺部=地方は、成熟した、複雑で多様化した課題が集まっています。使える資源が減っている中で、なんとかしないといけないことが大量にあり、めちゃくちゃ工夫しないともうやっていけない。しかも、そこには「現役の古い工場」があります。それは、20世紀の政治・経済のしくみのことで、経年劣化が激しいですが、いまだ社会を操作する仕組みとして使われています。

そこでは、もう少なからぬ「工場」が、止まってしまって、あなたがベルトコンベアに乗っても、前に連れてってくれないのです。つまり、旧来の社会の仕組みが、破綻しそうなところに、あるいは、実質的にはもう破綻してしまったところに、”原野”なり、“空き地”は広がっている────

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私が思うことはこうです。

だから、日本の地方では、影響力や信用、自己有用感、「ぼくらの〇〇」というコトの共有や所属感を得やすい。

たとえば、その原野、空き地でこそ「自分の手で、社会に直接触れている感覚」を持ちやすいのではないかと思うのです。そこには、きっとあなたが、参加して活躍できる機会があるということです。都市と比べると、相対的に、自分が社会に与える影響が見えやすいからです。

あなたが責任を持って自分の足で歩むことで、より自由にものごとを変えていきやすい。私たちはここで、環境への適応だけはなく、環境そのものを創造をしていけます。

言葉を変えれば、空いているからこそ、新しいあそびをつくりやすいのではないか。刺激にあふれる都会ではつい受信者になりますが、自分から発信してやらざるをえない。「この指とまれ〜」的な声は、空き地でこそ響きます。

ジャイアンのように強くないし、出木杉くんのように早くもないが、友だちと助け合ったり、たまに冒険したり…たまにサボったり…というのは、のび太的だと私は思っています。

そして、“原野”の可能性をひらくために、信頼に足る手段のひとつが、私にとっては、今のところ「話し合い」です。

つまり、「田舎」×「話し合い」でこそ、私たちには自由があり、出番と役割、ひいては、自己有用感を得られる人生をつくるチャンスがある。

東京や海外もいいが、日本の地方の”空き地”を、人生の舞台にしてみるのも、悪くないぞ。

…彼らの反応を見るに、少し、気持ちをくすぐることができたかなと思うのでした。

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