見出し画像

なぜ明治維新の時、江戸が首都になったのか。

●なぜ明治維新の時、京都ではなく江戸が首都になったのか。


京都人の私としては合点のいかないところである。
なんといっても「大政奉還」であり「王政復古」なわけで、天皇が政治を行うことになるのだから、維新後は引き続き天皇のいる京都を首都とすべきである。おそらく、その時代の一般人の大半がそう思っていたと思う。
当時の京都新政府にとっての江戸は、いわば「敵国の首都」。敵国の首都を自国の首都に定める必要はないだろう。

ちなみに、オールド京都人は、しばしば「遷都するという政府の発表は出ていない。だからいま東京に天皇がいるのは一時的で、首都は変わらず京都なんや」的なことを言う。

※なお、国家元首がすむ場所が「みやこ」で、行政機能がある場所が「首都」。この二つは別物であるという議論もあるようである。しかし、本稿では「国家元首が住む=行政機能がある=首都」として進める。
※※「遷都」は前の首都を廃して新たに首都を移す場合に使う。新たに首都を定めることを「奠都」(てんと)という。明治維新時の首都移転は、「奠都」と呼ぶのが正解らしい。ここでは、一般的に言われる「遷都」を使う。
(※、※※いずれの論点も、何度wikipediaを読み込んでもよく理解できなかった。私の文章読解能力を超えていた)

●東京遷都に至る経緯

最初は大阪を首都とするという意見が出た。しかし、公家らの激しい抵抗にあって、この案はとん挫した。
その後、戊辰戦争の進捗に伴い、江戸を東京と名前を変えて遷都する案が出た。

最初は、京都市民や公家への配慮から、東京遷都を明確に言わず、あくまで「東西両京」としてスタートした。だから、「東京」というのだ。
その後、京都や大阪の人心を鎮めるために京都に戻ったり、逆に東京市民に不安を与えないようにまた東京に戻ったりするなど、ときの明治政府は、首都問題についてかなり神経質になっていたようだ。
京都から東京に天皇が戻るときには、京都市民や公家から反対運動が起き、間を取って名古屋遷都を唱える者もでてきた。
びっくりである。

その後、皇后が東京に住居を移し、また大蔵省や兵部省などの行政機関も徐々に東京に移し、遷都が完成した。

●東京に遷都した理由

問題はこれである。
なぜ遷都したのか。その目的は何だったのか。そこを議論したい。
以下に当時の要人たちの意見を徴し、私の感想も書いた。

①遷都しなくても衰退の心配がない大坂よりも、世界の大都市の一つであり、帝都にしなければ市民が離散して寂れてしまう江戸の方に遷都すべき(前島密の意見)。

➡積極的な理由というより、江戸という大都市の維持のためという消極的理由。確かに、商人の町として栄えてきた大阪は、遷都がなくても衰退しないのは確かだろう。
近時の大阪経済の地盤沈下を鑑みると、当時とは事情がはるかに違うとは言え、皮肉な結果になったと言わざるを得ない。

②帝都は国の中央にあるべきで、大阪は小さく道路も狭小、江戸は諸侯の藩邸などが利用でき官庁などを新築する必要がない(前島密の意見)。

➡インフラ整備の観点。お金のない明治政府なら当然の帰結かもしれない。ここでは、京都ではなく大阪と比較している点に留意。京都のママという意見はこの時点ですでになかったのだ。

③数千年王化の行き届かない東日本を治めるため。ゆくゆくは東京と京都の東西両京を鉄道で結ぶ(江藤新平と大木喬任の意見)。

➡「数千年王化の行き届かない東日本」って、どれほど侮蔑的な言い回しを使うのか?
いえ、私が言っているのではなく、江藤氏と大木氏の意見なのでご容赦を。プライドの高い京都市民を納得させるためにはこんな言い方をしないといけなかったのだろう。
ここでも「東西両京」という表現がされている。
ちなみに東海道線で東京と京都が結ばれたのが1889年(明治22年)。遷都から21年後のことである。政治とはかくも長期戦なのだ。

④関東の人心に京都・大坂の盛衰や国の興廃がかかっているのであり、京都・大坂の人心を失っても、地勢に優れる東京を失わなければ天下を失うことはない(三条実美の意見)。

➡公家出身で政府トップの三条氏の意見。
当然ブレインがいて、三条氏の意見として呈されたものと思われるが、東京遷都に関する政府首脳の覚悟を感じる意見である。
遷都は、京都大阪の人心を失うかもしれない、という大きなリスクを背負っての決断だったんだ!
遷都に抵抗するはずの公家出身の三条氏がこういう意見を出すのは、すでに政府トップとしての自覚があったからだろう。

⑤数百年来一塊したる因循の腐臭を一新するため(大久保利通の意見)。

➡これは大阪遷都案を上程するときの文章なので、東京遷都の理由ではないが、京都から遷都する理由として取り上げた。
保守的で、時代を進める際の抵抗勢力でしかない公家集団と、その因循な政治姿勢に対する強烈なアンチテーゼである。非常に強いメッセージである。
幕末、公家集団に取り入って、それを操って王政復古まで推進してきた大久保氏が言うところに凄みがある。こんなこと言ったら刺されるで!
大久保氏にとっては、身の安全よりも、実行したい政治があれば、それを優先するということなんだろう。
大久保利通、不世出の政治家である。かっけー!

●所見

ここまではwikiを取材元として書いてきたが、ここからは完全に私個人の意見である。
①から⑤まで、時の政府の要人の意見を書いてきた。いずれも理由として正解であり、すべて合わさっての意思決定だったんだろう。

問題は、何がもっとも根源的な理由だったのか、である。
おそらく、⑤の保守的な公家集団を切り離したかったからではないか、というのが私の意見である。
天皇の政治を補佐することを数百年やってきた公家集団は、王政復古という建前上、明治維新直後は相当上位の役割を担っていた。であるにもかかわらず、新政府を担うだけの人材を(三条実美、岩倉具視以外は)輩出できなかった。

また、「金で転ぶ」「威圧されるとすぐに折れる」などの通弊もあり、命をマトに修羅場をくぐってきた薩長の志士からすると、一緒に仕事をやれない、信用できないという気持ちもあったのだろう。
外国を打ち払う攘夷を旗印としてきたのに、突然手のひらを返して開国し、富国強兵に向かうという難しいかじ取りをしないといけなかった明治政府としては、海外事情もわからず保守的なことばかり言う公家集団を切り離したかったに違いない。

まず公家からの切り離しのための遷都ありきで、大阪か江戸を比較して、インフラの整備や都市人口の維持、人心の収攬を考えて、リスクを取って江戸を選択した。こんなところが真実のストーリーではないかと思料する。

(なお、東京遷都のときに公家も大部分が東京に移住させられた。なので、即座に公家集団から切り離せたわけではないが、反対意見を取り上げられなかったことが契機となって、公家社会は力を失っていったものと思われる。これは類推だが。)

●この論考を書いた理由

別に、私が歴史マニアの京都人で、東京遷都に納得がいかなかったからではない。
歴史は意思決定の積み重ねであるが、未来人である我々は、その意思決定がつい当然のものであると思ってしまうことが多い。

しかし真実はそうではないのだ。
東京遷都一つをとってみても、リスクの分析と評価を行い、それを十分把握したうえで、覚悟を持って意思決定したことがわかる。またリスクを極小化するための配慮のあともうかがえる。当時の政治家たちの名人芸だったのだろう。

意思決定のプロセスと理由をリサーチして、その意思決定を追体験したい。そして自分が何らかの意思決定をするときに、正確な意思決定ができるようなトレーニングにしたい。
それが本論考を書いた理由である。








この記事が参加している募集

『人の生涯は、ときに小説に似ている。主題がある。』(竜馬がゆく) 私の人生の主題は、自分の能力を世に問い、評価してもらって社会に貢献することです。 本noteは自分の考えをより多くの人に知ってもらうために書いています。 少しでも皆様のご参考になれば幸いです。