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【大河ドラマ】鎌倉殿の13人 第44回&第45回感想

さようなら源実朝。
大河ドラマ感想。今回は11月20日放送の第44回「夢のゆくえ」、11月27日放送の第45回「八幡宮の階段」の感想です。

第44回

この回の悪役ぶりは良かった源仲章さん

源仲章は悪役としてちょっとパンチが弱いなぁと感じていましたが、最後の最後に輝きましたね。
義時を挑発するようになってから良かった。
やはり人間の本性をむき出しにして輝かせるのは「野心」ですね。
ちなみに仲章は宇多源氏なので清和源氏の将軍家とは完全に別系統。

その将軍家の源実朝に「御所を西に移す」と言わせる脚本にはかなり不満。
義時が実朝を見放すために言わせた台詞という感が強く、実朝に後鳥羽院への尊敬の思いが強かろうと、さすがにこういうことを考える人物ではなかったろうと思います。
実朝の政治的能力については色々議論はあるわけですが、鎌倉殿としての自信と誇りを持った人物であったことは間違いがなく、脚本のご都合主義のセリフにはかなりガッカリしました。
私は北条義時の「鎌倉の政治の実権を握る」と「鎌倉殿を支える」という2つの思いは実朝が殺されるその時まで矛盾なく両立するものであったと考えていますので、大河の義時と実朝の関係の描き方は本当に残念です。

たまにしか登場しないことに意味がある運慶

運慶は脚本上、変化する主人公・北条義時を定点観測する役割を与えられた面白い人物像になりましたね。鎌倉に常住せず、たまにしか登場しないからこその役割。
当初は幕府に近い仏教関係の人物としてはエピソードの多い栄西の方が義時に絡ませるには適任ではないかと思いましたが、鎌倉に拠点を持った栄西には同じ役割には担えないのですよね。

運慶本人から「自分が絵を描いて、つくるのは弟子」と造像スタイルが語られました。運慶が自分でつくらずに弟子につくらせることがあったというのは史実どおり。
ただ、運慶については有名人だからこその問題もあって、

①一門の棟梁である父の康慶による指示で運慶が彫ったもの
②代替わりして一門の棟梁となった運慶が自ら彫ったもの
➂運慶が一門の棟梁として指示し、弟子が彫ったもの

この①~➂の性格の異なる仏像はそれぞれ誰が制作したと言えるのかという問題。
②は議論の余地なく運慶作。
問題は①と➂。

①は学術的には本来「康慶作」になるんですよ。でも運慶が有名すぎるので、「運慶作」として伝わり、宣伝されてしまっているものが少なくない。
➂は運慶が指一本触れてなくても学問的には「運慶作」。でも弟子が彫ってるから運慶が自分で彫ったものとは作風が微妙に異なっていることがありうる。結果、専門家でも「運慶作」と言い切れず、埋もれてしまっている仏像もあると考えられる。
先に45話に触れると、義時から運慶への依頼は➂ではなく②であることにこだわったということですね。

第45回

天命に逆らうな

源実朝暗殺事件
公暁単独犯説、北条義時黒幕説、三浦義村黒幕説を全て成立させようとする脚本のまとめ方は見事と思いますが、前述したとおり私はこのドラマの実朝・義時関係の解釈には不満があるので納得はしていないです。
実朝を殺害されてしまったことは義時にとっての大きなミスであったと思っています。見殺しにしたかのような解釈は受け入れがたい。

公暁に協力した僧3人が平家一門の出身という記録が八幡宮にります。
当時の鎌倉はまだまだ京から見れば遠く離れたド田舎であり、著名な高僧を招くことが難しかった。
なので、謀反人として地位を失いながらも知識と教養のある平家関係者を幕府は八幡宮の僧として鎌倉に迎え入れたんですね。
お膝元の鎌倉に置くことで平家関係者の動向を監視することもできて、幕府にとってはメリットが大きかった。
まさか自分の孫が彼らを引き入れて自分の子を討つなんて源頼朝は想像もしていなかったことでしょう。

後に西八条禅尼と呼ばれる

ドラマでは千世と呼ばれた実朝の御台所。
実朝が殺害された後、京へ帰りますが、当然幕府とのネットワークは維持されており、承久の乱に加担した兄・坊門忠信の助命嘆願を行っています。
幕府は貴族や僧であっても戦場に立ったものは戦闘員として容赦なく処刑するのが基本姿勢でしたが、坊門忠信は例外的に命を救われています。
前・将軍御台所の嘆願を幕府は無視できなかったということですね。
西八条禅尼と呼ばれることになる実朝御台所はこの時代にしては長命で、京に帰ってから約50年生きることになります。文永11年9月18日に死去。
蒙古襲来(文永の役)の約一ヶ月前のことでした。
享年82歳。

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