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【いざ鎌倉(35)】鎌倉右大臣

前回記事の概要。
子のいない実朝の後継者問題に悩んだ幕府。
幕府は、実朝の甥や従兄弟から後継者を選ばず、京から後鳥羽院の皇子を迎え入れて後継者とするという結論を下しました。
北条政子が直々に京に上り、朝廷との交渉に臨みました。

今回は後継者問題解決後の幕府の動きを解説していきます。

左大将実朝

将軍実朝は、朝廷から念願であった左近衛大将に任じられ、27歳にして父・頼朝の官位を超えました。
これにより、実朝は左大将任官を感謝する拝賀式を行います。
本来、これは任命者に対して感謝を示し、拝礼するもので、今回であれば順徳天皇と後鳥羽院がその対象です。

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順徳天皇

しかし、実朝は鎌倉在住ですから鶴岡八幡宮に神拝することで代替しました。なお、父・頼朝は京滞在中に右大将に任じられていますので、拝賀式は鎌倉ではなく京で行われ、後鳥羽天皇と後白河院のいる内裏と院御所に参内しています。

華々しい拝賀式

後鳥羽院にとって、実朝は次期将軍となる自分の皇子を支える大切な後見人であり、左大将拝賀式はその実朝の重要な晴れ舞台です。
後鳥羽院は盛大な拝賀式となるべく全力で支援に当たります。
拝賀の行列に使われる牛車、実朝の装束、さらには随身(護衛)の装束、九錫彫の弓など様々な調度が後鳥羽院から下賜され、京より運び込まれました。

さらには拝賀式に出席させるため、近臣たちを鎌倉に下向させています。
勅使として藤原忠綱、源頼朝の妹の嫁ぎ先で幕府と縁の深い一条家から一条信能、一条実雅、一条能氏、一条能継、一条頼氏、因縁の平家から平為盛(清盛の弟・頼盛の次男)、幕府政所別当も務める源頼茂、源仲章、大江広元の次男・長井時広らが後鳥羽院の指示で拝賀式参列のために鎌倉に下ってきました。
なぜ平家の平為盛?と思うかもしれませんが、これはおそらく為盛が平治の乱の際に源頼朝の助命を乞うた池禅尼の孫という意味が強いのではないかと。池禅尼がいなければ頼朝は平清盛に殺されていたかもしれませんので、単にかつての敵味方以上の因縁があります。「いま幕府があるのは池禅尼のお陰なんだから、その子孫とは仲良く付き合いなさい」という後鳥羽院の粋な計らいと言えるんじゃないでしょうか。

こうして建保6(1218)年6月27日、左大将拝賀式が執り行われました。
御所から鶴岡八幡宮までの道中、華々しい行列が組まれ、将軍生母・政子と将軍御台所も見物しました。

実朝が乗る牛車の前を歩む2列の前駆の最後尾左が執権・北条義時、最後尾右が源氏一門の大内惟義でした。行列の配置は御家人の序列を意味します。
左右だと左が格上なので、この時点で北条義時が御家人の中で最も高い格、2番手が大内惟義ということになります。
7月8日、左大将としての直衣始を行うために実朝は再び行列を組んで鶴岡八幡宮に向かいますが、この時、行列の左右の位置を巡って三浦義村と長江明義がトラブルになりました。左右の格はそれだけ御家人の体面に関わる問題だったのです。この時は実朝が年長の明義が左、義村を右と決めて納得させました。

怒る実朝

8月20日、拝賀式に合わせて鎌倉に下向していた長井時広が実朝に帰京を申し出ました。
時広は拝賀式が終わってからも約2か月、鎌倉に滞在していましたが、以前より検非違使(京の治安維持を担当とする朝廷の官職)への任官を臨んでおり、そろそろ京に戻って天皇に尽くしたいというのが理由でした。
時広としては、鎌倉下向は後鳥羽院の指示による一時期的なものと考えていたことがわかりますが、実朝はどうやらそう考えていなかったようです。時広は先に述べた通り、幕府政所別当・大江広元の次男ですから、実朝にとっては京から下ってきた殿上人の中でも「自分の部下」という意識が強かったのかもしれません。
実朝は時広の帰京の申請に怒り、仲介した側近の二階堂行村に次のように述べました。
「蔵人となって鎌倉に下向したのだから、決して京に戻りたいなどと考えるべきではないのではないか?幕府を見下しているのか?その考え方はおかしい」

時広は行村から実朝の言葉を述べると、
「決して幕府を軽んじているわけではない。検非違使任官を希望しているがまだそのための奉公が足りず、今回は一時的に下向してきた。お許しをいただいて京で自分の望みさえかなえば、鎌倉に戻って奉公する」
と述べ、再び行村に仲介を依頼しましたが、実朝の激しい怒りを間近で見ていた行村は辞退しました。
困った時広は涙を流して北条義時に仲介を依頼し、何とか帰京は認められたようです。

実朝がこの頃、幕府の長としての自負を強めていたことが窺える逸話だと思います。
実朝は御家人たちが自分と父を比較して見ていたことを自覚していたことでしょう。
父のように武勇に優れぬ実朝は、偉大な父に対するコンプレックスもあったかもしれません。
だからこそ、父・頼朝の生前の官位を越えたことは実朝にとって自信を深めるとても大きな意味を持つことだったのではないでしょうか。

大臣に昇る

父の官位を超え、華々しい左大将拝賀式を行った実朝ですが、後鳥羽院からの強力な支援が継続します。
後鳥羽院としては、自身の皇子を預け、後見するに相応しい身分に実朝を引き上げる必要があったと考えられます。
10月9日、実朝は内大臣に昇任し、遂に大臣の壁を突破します。武士として内大臣に任じられたのは平清盛・重盛・宗盛という平家の棟梁たち以来の4例目。ただ、この平家の先例から実朝はあまり内大臣昇任を喜ばなかったともいいます。
これまで摂関家と同格の昇進を続けてきた実朝ですが、大臣になったことで立場として実際に摂関家に並ぶことになりました。
この頃の貴族社会には、生まれた家によって昇進できる最高位とそこまでの昇進速度が固定化された家格秩序が形成されていましたので、その例外となる実朝の摂関家に準ずる昇進は後鳥羽院の強力な支援なしにはありえないことです。
この時、政子も従二位へと昇叙しました。後鳥羽院は政子にも将軍生母としての相応しい格を与える気づかいを忘れません。

鎌倉右大臣

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小倉百人一首の93首目
「鎌倉右大臣」=源実朝

実朝の昇進は止まりません。
内大臣となって2か月も経たぬ12月2日、実朝は右大臣に任じられました。
11月11日に左大臣・九条良輔が他界し、右大臣だった九条道家が左大臣に昇ることになったため、実朝もスライドして右大臣となりました。武士の右大臣就任はこれが初めてのことでした。

右大臣拝賀式は翌月末の建保7(1219)年1月27日に決まりました。
左大将就任時の拝賀式を上回るものとするべく、朝廷と幕府は急いでその準備に入ることになります。
内大臣拝賀式が準備されなかったことから、早期の右大臣就任は既定路線だったと見る向きもありますが、左大臣・九条良輔が急死しなければ実朝が右大臣にスライドすることはなかったわけで、どう考えればいいんでしょうかね。

1.平家の先例が不吉だから内大臣昇任の際は拝賀式を行わなかった。
2.当初は平清盛と同じコースで内大臣から太政大臣へ昇任することが内定していたので、拝賀式は予定されなかった。偶然ポストが空いたことで予定は変更され太政大臣ではなく、右大臣に納まった。
3.朝廷・幕府それぞれ忙しく、内大臣拝賀式の日程を調整している間に右大臣昇任が決まった。

考えられるのはこのあたりでしょうか。

とにかく内大臣拝賀式は行われず右大臣拝賀式の日程が決まったわけですが、同時に別の計画が同じ鎌倉で進んでいることを実朝は知りません。
拝賀式の行われる鶴岡八幡宮ではこの時も別当・公暁が参籠を続け、神仏に祈り続けていました。別当就任から1年以上、髪も剃らずにひたすら祈り続ける公暁の行動を人々は怪しく感じていました。

次回予告

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武士として未曽有の右大臣昇任を果たした源実朝。
その拝賀式は左大将就任時以上の盛大な規模で開催される。
夕刻から降り始めた雪は鎌倉を白く染め上げる。
神拝を行う八幡宮で実朝を待ち受ける憎悪。
一人の青年の執念の刃は降り積もった雪を赤く染め上げ、1つの時代が終わりを告げる。
次回、「実朝、惨殺」。

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