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【いざ鎌倉(24)】将軍源実朝の成長と二所詣

後鳥羽院中心の話が続きましたが、今回は幕府の話に戻します。
今回は3代将軍・源実朝の成長について解説します。
今後しばらく出番の多い実朝ですが、これまで京から御台所を迎えたことぐらいしか書いていませんので、今回以降堀り下げていきます。

将軍の家庭教師・源仲章

若き将軍実朝の学問の師として幕府が京から招いたのが源仲章でした。
また、新たな源氏の登場ですがこの人は宇多源氏です。
これまでの連載で登場してきた清和源氏(将軍家、甲斐源氏、信濃源氏等々)、村上源氏(源通親、道元禅師等々)とはまた別の家系となります。

仲章は後鳥羽院の院近臣であると同時に、鎌倉に下る以前から京で御家人としても活動していました。平賀朝雅同様、この人も院と幕府、両方に所属する人だったわけですね。
建仁3(1203)年、阿野全成の子・阿野頼全を殺害する役割を担当したと伝わります。

仲章には特別な学問的実績があったわけではなかったそうですが、読書家で博識であると有名で、実朝の侍読(家庭教師)に抜擢されました。
建仁4(1204)年正月、御読書始に仲章が実朝のために選んだテキストは中国儒教の経典『孝経』でした。

以後、仲章は実朝が信頼する側近の一人となり、京・鎌倉を頻繁に往復することで幕府と朝廷の良く言えばパイプ役、悪く言えば(?)二重スパイとなっていきました。

リモートで和歌を学ぶ将軍

元久2(1205)年9月7日、実朝が待望した『新古今和歌集』を内藤知親が鎌倉に届けました。
知親は身分の低い在京御家人でしたが、当代一流の歌人・藤原定家に弟子入りしており、自身の和歌も「読み人知らず」として『新古今集』に入集していました。

実朝は父・頼朝の和歌が入集したことをきっかけに『新古今集』に興味を持ち、和歌の学習を本格化させますが、当時の鎌倉には本格的に指導できる歌人はいません。
当初の実朝は、内藤知親をはじめとする和歌の教養のある御家人や御台所とともに京から下ってきた人々とのやり取りを通じて独学的に学習をスタートさせたと考えられます。
建永元(1206)年2月4日、北条義時の山荘に雪見に出かけた実朝は歌会を開き、北条泰時・東重胤・内藤知親といった側近が参加しました。
また、承元2(1208)年5月29日、御台所の侍で京からやってきた藤原清綱が家伝の『古今和歌集』一部を実朝に献上しています。

実朝の和歌の学習に転機が訪れるのは承元3(1208)年7月のこと。
自撰した和歌30首を内藤知親に預けて京に送り、藤原定家に添削を求めたのです。
兄・頼家は蹴鞠の師範を京から呼び寄せましたが、和歌であるならば通信教育、今風に言えばリモートでも可能です。
実朝は当代随一の歌人・藤原定家に教えを求めたのでした。

定家は実朝の求めに応じて和歌に添削を加えると『近代秀歌』(詠歌口伝)という自身が書いた和歌についての論文を送りました。
この後も定家と実朝のリモートによる師弟関係は続いていくことになります。

初めての二所詣

建永2(1207)年、実朝はこの年に初めて「二所詣」を実施しています。
二所詣とは、朝廷の熊野詣に倣って源頼朝が始めた宗教行事です。わかりやすく言うと年始に実施される将軍ご一行による初詣であり、団体旅行でもありました。
その名のとおり箱根権現(箱根神社)伊豆山権現(伊豆山神社)の2か所を参拝する行事でしたが、三嶋大社も加えて、3か所を参拝するのが慣例となりました。

3か所の神社を簡単に解説しておきます。

箱根神社は将軍家の祖先である源頼義が前九年の戦いの前に武運長久を祈るなど、源氏と古くから縁のある神社です。箱根の芦ノ湖のほとりに鎮座します。

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芦ノ湖の湖上に浮かぶ箱根神社の平和の鳥居(写真右奥)

伊豆山神社は流人となった源頼朝が源氏の再興を祈り、政子とも逢瀬を重ねたとされる頼朝・政子夫妻にとって特別な神社。挙兵後、鎌倉を拠点として落ち着くまで政子をかくまったとも言われます。熱海駅からバスに乗って10分程度で行けます。
三嶋大社も頼朝が戦勝祈願を行った神社であり、頼朝は三嶋大社の例大祭の日である8月17日を挙兵の日に選びました。静岡県三島市に鎮座する伊豆国一宮です。

それぞれの理由により3社は頼朝、幕府にとって篤く信仰される神社となりました。
二所詣は、まず鎌倉の由比ガ浜で沐浴を行って身を清めてから出発し、箱根・三島・伊豆山の順に参る形式で定着しました。

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鎌倉・由比ガ浜

二所詣は頼朝死後しばらく絶えていましたが、この年、実朝によって復活します。
建永2(1207)年1月22日、北条義時・北条時房・大江広元といった幕府重臣を引き連れて鎌倉を出発した実朝は27日に鎌倉に戻りました。
5泊6日の行程でした。

なお二所詣はこの後5年間再び絶えますが、実朝は非常に重視するようになり、後に毎年の恒例行事として定着し、実朝死後も鎌倉幕府が滅亡する直前まで続くことになります。

後鳥羽院が熊野詣の道中で和歌を詠んだように、実朝にも二所詣の際の和歌が多数残されています。一首引用しておきましょう。

箱根路を われ超えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄る見ゆ

熱海に行ったことがある人なら景色を頭に思い浮かべることができますね。
「沖の小島」とは初島のことでしょう。

次回予告

侍所別当・和田義盛から実朝にもたらされる難題。

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