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【いざ鎌倉:コラム】源実朝暗殺事件を検証する

今回は番外編です。
前回は公暁による右大臣拝賀式における源実朝暗殺と幕府による公暁の誅殺について書きました。
未読の方は是非、前回記事からお読みください。

本編前回では時系列に沿って自分なりに考える事件の経緯を書きましたが、今回は番外編コラムとしてもう少し掘り下げていきたいなと思います。

源実朝暗殺の黒幕を考える

実朝の暗殺には黒幕が存在し、公暁は単に実行犯にすぎなかったということは昔からよく言われます。
色々な説があり、昔から議論されるこの事件の黒幕についてどう考えるのが適切なのか。
これについては私には自分なりの解釈があり、その通りに本編を書いてきましたので、読んでそのままです。
結論から書いてしまいますと、
黒幕はいなかった。

私はそのように考えます。なので黒幕を示唆するような記述をしてきませんでした。
極めて単純に暗殺は公暁自身の発想によるものだったのだろうと思います。

公暁の企みに平家出身の供僧たちの協力があったと本編記事では書きました。
これも一部に協力者がいたという話であり、黒幕として実朝暗殺を計画し、公暁を唆したというような話ではありません。

常識で考える次期将軍候補

建保5(1217)年10月に鶴岡八幡宮別当に就任した公暁。
公暁の別当就任は先代の定暁が他界したからですが、後任は公暁以外あり得なかったかというと必ずしもそうではなかっただろうと思います。6年間、園城寺で修行したとはいえ、まだ18歳の公暁は宗教者として明らかに経験不足であり、高僧と呼ばれるレベルではありません。
経験豊富な僧を招聘して別当にする選択肢はあったわけですが、そうはならなかった。
公暁の抜擢は政子の意向とされますが、これはやはり政子自身も当事者である政争によって父・頼家を失った孫の公暁への償いであり、恩情であったと思います。

ただ、本編でも書いた通り、公暁が呼び戻されたとき、丁度幕府は後継者問題で揺れていた。
子の産まれない実朝の後継者はどうなるのか、これは幕府関係者の大きな関心事だったはずです。公暁も当然関心があったでしょう。

幼き頃は父の死の意味がわからず、僧になるという自分の人生に疑問を持たなかった公暁も成長する中で、父が北条氏の野心によって殺されたことは理解したことでしょう。
「本来、将軍になるべきは自分なのではないか?」と常々考えていたところ、祖母・政子から鎌倉に呼び戻されることになった。
「このタイミングで呼び戻されたということは自分が次期将軍の最有力候補なのではないか?」
公暁がこう考えた可能性はかなり高いだろうと思います。

ただ、政子の後援は鶴岡八幡宮に推すところまでで、さすがに将軍候補とは考えていなかったでしょう。将軍にする考えがあったなら別当にせず、還俗させて武士として一門に加えても良かったはずです。
そして、将軍実朝と執権・北条義時にも公暁を将軍にするという考えは全くなかったでしょう。本編でも書いた通り公暁の父・頼家を追い落としたのが北条氏であり、その結果将軍になったのが実朝。公暁が将軍になった際に粛清、報復が行われる可能性を考えれば義時は賛成するはずがなく、実朝も義時の反対を押し切ってまで公暁を後継者にしてやる理由はありません。

幕府は後に次期将軍候補として後鳥羽院の皇子を迎えることを考えるわけですが、これは常識から考えればあり得ない奇想天外な発想です。
ふつうは嫡流の血筋が絶えれば庶流から後継者を迎えます。
今の皇室だってそうですね。
だから「自分がつぎの将軍」と公暁が考えたとするならば、常識的な発想です。
これが天下泰平の江戸幕府の話であるならば、次期将軍は公暁だったかもしれません。
だが、ここまで連載を続ける中で書いてきたように血塗られた抗争を続けてきた鎌倉幕府ではそうはならなかった。

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鶴岡八幡宮への参籠

別当になった公暁は就任を報告する神拝を終えると、早速八幡宮に籠って祈りを続ける参籠に入ります。
別当としての職務を果たさず、髪も伸ばし続ける。
これは鎌倉に戻ってきた時点で僧として生きていく人生は捨てていたと考えていいでしょう。実質的な還俗と将軍就任の準備に入ったと見ていい。

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鶴岡八幡宮

では、暗殺決行までの1年以上、公暁は神仏に何を祈り続けたのか。
これは
「早く将軍になれますように」
などという前向きなものではなく、やはり呪詛、実朝を呪い殺す意図だったのだろうと思います。
今日においては非科学的と一蹴する「呪い」は、当時の宗教感覚からすれば全くおかしな行動ではありません。
自分が次期将軍の最有力候補と考えた公暁。
しかし、その立場は実朝に子供がいないからです。
これまで恵まれなかった正室との間にようやく子ができる可能性も、実朝の気が変わって側室を迎える可能性も考えられます。
そうなる前に実朝には死んでもらわねばならない。
そのために武士ではなく僧である公暁が取った選択肢が、物理的な暗殺ではなく呪詛だったと考えます。

暗殺の決行

しかし、呪いが効いて実朝がすぐに死ぬようなことはありませんでした。
そして公暁が恐れていたとおり、自分が望まぬ方向に将軍後継者についての議論が進んでしまう。
それは予想もしなかった後鳥羽院の皇子を迎えて将軍とする選択肢

公暁は焦ったでしょう。皇子が一度将軍として迎えられれば、今後自分が将軍になる可能性はゼロに近い
最早、実朝が呪いで死ぬのを待っているわけにはいかなくなった。
幸いにも拝賀式で実朝は自分の勝手知ったる鶴岡八幡宮にやってくる。
参籠して職務を十分に果たしておらずとも、頼朝の血を引く源氏のプリンスで鶴岡八幡宮の長である公暁ならば、拝賀式の次第も行列の陣容も事前に知ることは容易だったでしょう。
当日の計画を練る時間的猶予は十分あったと思います。

可能ならば実朝だけでなく、もう一人の父の仇である執権・義時も討ってしまいたい。
幸いにも自分に協力してくれそうな僧たちが八幡宮にはいる。
出家して供僧となった平家一門——
幕府に恨みを持つ彼らの協力があれば実朝と義時を同時に討つことができる。

公暁はこのように考えたのではないでしょうか?
暗殺を唆した黒幕はいない。
将軍になるという野望を果たすための公暁の執念が引き起こした事件と私は考えます。

北条義時黒幕説

さて、ここからはそれぞれの黒幕説について考えていきます。
まず、執権・北条義時
古くからある義時黒幕説ですが、まず動機が弱いかなと。
自分が将軍になるというならわかるんですが、事件後も義時と北条一門にそのような素振りは全くない。
比企氏が擁立する頼家を排除して実朝を将軍としたのは北条氏であり、このタイミングで突如切り捨てる積極的意味を見出しがたいように思います。実朝は北条氏の傀儡ではなかったと思いますが、邪魔な存在であったかというとそれもまた違うのではないかと。
北条氏の他の御家人に対する優位性はやはり政子が将軍生母ということにあり、結果的にはその優位性を失っても「北条一強体制」はこの後も崩れなかったわけですが、だからといって自らその優位性を放棄する理由もないように思います。
また頼家を排除する際は後鳥羽院に根回しし、事前に実朝の将軍宣下の準備を整えていた北条氏ですが、この時は実朝排除後の将軍について後鳥羽院・朝廷への事前の根回しや準備が全くないことも北条氏が事件に関与していないことを意味しているかなと。

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(坂井孝一氏『源氏将軍断絶』より)

前回の本編記事では義時たち前駆が実朝から「中門にとどまれ」と指示をうけたことで命拾いをしたという話を紹介しましたが、これは当日参列した貴族たちから聞き書きしたであろう『愚管抄』の記述を採用したものです。
幕府の史書『吾妻鑑』では様子が違いまして、実朝の指示はなく、体調を崩した義時が直前で源仲章に役目を代わってもらって帰宅したという話になっており、この行動を怪しんで「襲撃を事前に知っていた義時が黒幕なのでは?」と考える説があるわけですが、これは史実ではないんじゃないかと。
既に儀式が始まって行列が進む中、義時が列を乱し、行列のかなり前を歩く仲章に事情を説明して役目を代わって貰うというのは難しいように思います。
これは歴史学者の坂井孝一氏が自説とされているとおり、北条氏全盛期に成立した『吾妻鑑』が「北条義時が中門にとどまれと指示される程度の格の存在だったとは書けなかった」という話が私も妥当だと判断します。

三浦義村黒幕説

公暁の乳母夫が義村であること、義村の子の駒若丸(後の三浦光村)が公暁の門弟であったこと、拝賀式の行列に義村が加わっていなかったことなどから作家の永井路子氏により提唱された三浦義村黒幕説

これも三浦義村が実朝や北条氏に反感を持っていたとするならば、和田合戦の時に同族の和田義盛を裏切っていないと思うのですよね。

義村が裏切らなければ和田方の勝利に終わった可能性は高かったので。
義盛を切り捨てた時点で義村は実朝・義時体制を支える腹は固まっていたと考えます。
後の承久の変でも幕府を裏切ってないですし。

公暁を殺害したのが義村の配下であったことから、義時暗殺に失敗した義村の証拠隠滅を疑う考えもありますが、それなら公暁の使者が訪れるのを待って義時に相談するというプロセスにはならないでしょう。下手なことを口走られる前に公暁一味を一秒でも早く皆殺しにするべく動くんじゃないでしょうか。
しびれを切らした公暁が義村の迎えを待たずに義村邸に向かったことからも、義村の対応はスピード感以上に北条義時への相談に重きを置いているように感じます。

拝賀式の行列に加わっていない点についても「実朝・義時の暗殺成功を待って自邸で挙兵の準備をしていたのではないか?」と疑う向きもありますが、これも坂井孝一氏が提唱されているとおり、前年の左大将直衣始の行列において義村が長江明義とトラブルを起こしたことが原因でこの日は自宅待機を命じられていたんじゃないかと。
単に懲罰だったのだと思います。義村ほどの重鎮が当初は参列する予定だったのに、姿を見せなかったのだとすれば異常なことだと記録が残されていて良いはずです。
なので、義村の姿が行列に見られないのはどういう理由にせよ、事前に決まっていたのでしょう。
ちなみに三浦氏からは義村の長男・朝村が随兵として行列に加わっておりますので、義村が謀反を起こす気があったなら朝村も参加させないだろうという気がします。

後鳥羽院黒幕説

後鳥羽院は実朝の死去を聞くと、陰陽師たちを解任しており、これを「実朝の呪詛を命じていた陰陽師たちを証拠隠滅のため(役目を終えたため)に解任した」という説を唱える人もいるのですが、これは逆でしょう。
後鳥羽院は陰陽師たちに自身の皇子を託すことになる実朝と幕府の安泰を祈願させていたのであり、実朝の死という真逆の結果を招いた役立たずと考えたからクビにしたのでしょう。
実朝の生前から後鳥羽院が幕府を敵視していたかのような見方は私は賛同できません。
後鳥羽院による幕府呪詛は実朝死後の話と考えた方が自然でしょう。

実朝は心から後鳥羽院を敬慕しており、後鳥羽院もそのことを好ましく思っていた、だから自身の皇子を次期将軍として鎌倉に下向させることにも本心から賛同していた、と私は考えています。
「公武合体」路線の合意は後鳥羽院にとって建前じゃなくて本音だったと思います。
実朝が死ぬその時までは。

出でていなば

出でていなば 主なき宿と なりぬとも 軒端の梅よ 春を忘るな

源実朝が殺害される前に読んだ歌として『吾妻鑑』が記す和歌です。
「出て行けば主人のいない屋敷となるが、軒端の梅よ、春を忘れることなく咲いてくれ」
と自分の死を悟った和歌を詠んだとのことなのですが、これは広く言われているとおり創作でしょうね。

東風吹かば にほひをこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな

これは菅原道真による有名な和歌ですが、これを意識して「出でていなば~」の和歌が創作されたのは間違いない。
ともに右大臣に異例の昇進を果たし、非業の死を遂げたという点で実朝と道真は重なります。
『吾妻鑑』より先に成立した歴史書『六代勝事記』にも「出でていなば~」の和歌は見られるようで、こちらが原点なのでしょうね。著者(京の藤原隆忠か藤原長兼と見られる)が実朝の死をドラマチックに描くために代作し、『吾妻鑑』もこれを引用したと考えるのが自然かなと。

今回は長くなりましたが私の実朝暗殺事件についての考えは以上です。
事実とは得てしてつまらないもの。
あらゆる事件に黒幕の存在を想定し、歴史をエンターテイメントとして消費しようとする風潮は大衆社会の悪癖ですね。。
ちなみに本能寺の変もね、黒幕なんて存在せず明智光秀自身の判断だと思いますよ。

次回予告

次回は久々に人物伝。もちろん源実朝について。
次々回から本編に戻りまして、いよいよ最終章となります。

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