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どんな日も、佳き一日。

10年くらい前、とある大きな仕事を思い切って辞めた。
その結果、かなり時間のゆとりができたことがある。

トータル2年くらいだったろうか。

存分に眠って、ゆっくりと朝起きて。
食事をつくり、気ままに散歩して、お茶を飲み、読書した。
もちろん、仕事をすべて辞めたわけではないので、ちょこちょこ仕事はしていたが、その2年間は「暮らし」を大切にした時間だったように思う。

その頃、ぶらぶら散歩をしていたある日、ふと、

幸せだ

という気持ちが湧き上がってきた。

しかも、「何があるから」「何かをしているから」幸せ、ではない。

「生きていること」そのものが、幸せだ

と感じた。
それは、内側からわきあがる、生命の喜ぶ感覚だった。

直後、(もしかするとこのまま聖人君子になってしまうのではないか?)
と思ったが、そんな風に考える人間はそもそも、聖人君子になどなれるわけがない。
安心せよ自分。そんな簡単なもんじゃないぞ。
ただ、そんな勘違いをしてしまうくらい、穏やかで、清浄で、永遠に続き遠くまで広がるような幸福感だった。
その感覚は、生命の奥底に刻まれた。
いや、もともとあったものが、現れたのかもしれない。

その日から明らかに、私の人生は変わった。
毎日生きているだけで楽しくて、満たされて、幸せなのだ。
自分の眼が4Kレンズになったようにビビッドになった。
一日の、一時間の、一分の密度が豊満になった。
何があっても、何もなくても。

否。本来は、何もない一日など、ない。

ただ単に、その微細さを観る眼が、感じる肌が、聴く耳が、嗅ぐ鼻が、味わう舌が、その感性が、働いていなかっただけなのだ。
淡々と静かな毎日を生きなければ、そのことに気づけなかった。


その後、時間にゆとりある毎日は再び失ってしまったのだけれど、一度体験した「あの」感覚は、私の生命が覚えている。
もちろん、乱れることはあるけれど、ふと立ち止まればいつでもそこに戻ることができる。
そういう「型」が身に着いたことは、私の人生の質を上げてくれたように思う。

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先日、役所広司さん主演の『PERFECT DAYS』を観た。

役所広司さん扮する主人公・平山のルーティンな毎日は「僧侶のようだ」と称されるほど美しく、静謐で、馥郁としたものに、

見える。

ネタバレしたくないからあまり書けないけれど、私は「見える」と思った。

とあるキッカケでルーティンが崩れた時に見せた取り乱す姿が、それを物語っているような気がした。

彼は、人生で負ったあらゆる傷のついた心を整えるために、ルーティンを続けている。
抱えるには重たい感情や経験が渦巻く生命とともに、これからも生きていくしかないのだから。

だからこそ。
静かなルーティンが重要なのだ。
今日も佳き日であることを実感するために。

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歳をとるって、金継した器に似ている。

これまでの履歴がすべて刻まれた、生命の形。

平山の短いラストシーンに、そのすべてが織り込まれているようだった。

それにしても、ラストの数分間をあの感じでもたせられるのは、さすが役所広司さん。
平山の人生を想って、のどの奥がキュッと鳴った。

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