名古屋

とびきりおいしいエスプレッソと苦い名古屋人

イタリア人のBさんは、いつもとびきりおいしいエスプレッソを淹れてくれました。そのエスプレッソが楽しみで、自転車と地下鉄、合計約1時間の道のりもさほど苦にならずに、毎週Bさん宅を日本語のレッスンのため訪れていました。

 Bさんには日本人の奥さんがいるのですが、二人の会話は英語だったので、日本にいても日本語がなかなか上達せず仕事探しが困難でした。それで昼間奥さんが働いている間、Bさんは主夫として家事をしながら私の日本語のレッスンを受けるようになりました。

 Bさんは名古屋の繁華街近くの1DKのマンションに住んでいました。水色の鉄のドアのチャイムを鳴らすと、Bさんが笑顔で「コンニチハ!どうぞ」と迎え入れてくれます。小さいながらもきちんと整頓されたキッチン、棚には様々なサイズのカップが並び、奥には黒い家具で統一された中に真っ赤なソファー。どことなく異国の雰囲気がありました。Bさんは私のコートをハンガーにかけ、キッチンでお湯を沸かし始めます。そして時間をかけてゆっくりとエスプレッソを抽出し始めます。「寒いですね。元気でしたか」そんな軽い会話をしているうちにエスプレッソの香ばしい香りが部屋中に漂ってきます。かわいらしいデミタスカップに甘いお菓子を添えて運んでくるBさんは、さながらイタリアのウェイター(カメリエーレというべきでしょうか)のようでした。それもそのはずで、Bさんは日本に来る前はNYのイタリアンカフェで働いていたんだよと、ちょっと誇らし気に話してくれました。

 Bさんと奥さんは留学先のアメリカで知り合い、結婚後しばらく二人でニューヨークに住んでいました。しかしニューヨークでの生活は高く、カフェの仕事では不十分だったそうです。そんな矢先、一人っ子である奥さんの実家から帰ってきてほしいという連絡があり、ふたりは日本で新たな生活を始める決心をしました。

 Bさんの日本語は日常会話には困らないレベルでしたが、特別なスキルや資格がないため仕事探しは容易ではありませんでした。日本でいい仕事に就くには、日本語検定2級以上、もしくはプログラミングなど特別なスキルがないといけません。幸い奥さんの仕事は高収入で安定していたので、特に二人が暮らしに困ることはないようでしたが、Bさんはそれに満足していませんでした。「I'm a man! I need a job and I want to help my wife.」陽気でのんびりのイタリア人という日本人が持つイメージとはちがって、昔の「自転車泥棒」のお父さんのようでした。(もちろんあそこまで悲壮感はないですが。)

 そうして日本語検定に向けて勉強をしていましたが、検定の日を待たずに職安でビルの窓掃除の仕事を紹介してもらい、週に2,3回働くようになりました。一緒に働くのは名古屋が地元のおじさんたちです。私が教える標準的な日本語とはかなり違っているうえに、荒々しく言葉も少なめです。もごもごして何をいっているのかわからないとBさんは言います。なんとか手助けしたかったのですが、私自身名古屋が地元ではないので、おじさんたちがどのように話すのか、あまり想像できません。さらに悪いことに、仕事は不定期で急に呼び出されることもあれば、来なくてもいいと言われることもあり、Bさんは自分が雑に扱われているように感じていました。

 ある日、いつものレッスンの時間にBさんの家のチャイムを鳴らしても、Bさんが出てきません。ドアの前に立ったまま、メッセージを送ったり、電話をしたりしてみましたが、なにも返答がありません。仕方なく「だいじょうぶですか?」と一言メモを残し、そこを去りました。

 翌日Bさんからメールが来ました。

「うつ病の薬を服用したら、深い眠りに落ちてしまい、チャイムも電話の音もまったく気がつきませんでした。すみません。」

Bさんは、荒々しいおじさんたちとの仕事ですっかり鬱になってしまったのです。

 それでもBさんは諦めずに仕事を頑張ろうとしましたが、どんどん精神状態は悪くなり、見るに見かけた奥さんがイタリアに帰ることを提案し、しばらくの間Bさんはイタリアの実家で過ごすことになりました。

最後のレッスンでBさんは、私に小さなエスプレッソメーカーをくれました。本場イタリアで売っている、直火にかけて使うものです。ていねいに作り方を説明し、何度も「コーヒーで茶色くなっても洗わなくていい」と繰り返しました。どうして洗わなくていいのか理由がわかりませんでしたが、それがきっとおいしいエスプレッソを作るコツなのだろうと思いました。

 早速スーパーでエスプレッソ用のコーヒー豆を買い、Bさんの言うとおりに淹れてみましたが、どうしてもBさんのような、とびきりおいしいエスプレッソができませんでした。苦いばかりで深みというか、まろやかさが足りないのです。

 今、街中でチェーンのカフェが人気ですが、私にとってBさんがじっくり時間をかけて淹れてくれたあのエスプレッソよりおいしいところはないなあと思います。そんなおいしいエスプレッソを入れることができても、いい仕事に就けないという現実・・苦いですね。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?