「他人を気にして生きる」生活を再考しよう

 親日のアメリカ人ユーチューバー、Kyouさんの言葉が、良かった。

 キリスト教の内容ではないけれども、日本人のことをよく知っていて、愛しているので、上から目線ではなく、心から自然に、伝えたいことを伝えてくれていますね。(実は彼は教会に通っていて、この動画でも、字幕には出ていませんが、「神の恵みによって」という言い回しを使っています。)

 キリストのゆえに、その良心のゆえに行っていくのを、なぜか、犠牲にして相手や社会、空気に合わせて行くということは、キリスト者にもあるんじゃないかな?と思います。コロナ流行が始まった時に、「隣人愛のために」とか言って、要は世間体が気になって、教会にとっての生命である礼拝を疎かにしたと思いました。

 そういった「他の人が自分のことをどう思っているか?」という恐れが、福音宣教の妨げになっている、聖霊の働きが顕著に現れない一つの原因だと、この前の日曜日の説教「臆病の霊ではなく」でお話ししました。

 家族はもとより、私の周りにはキリスト者はほぼ皆無だったので、信仰を持つ時は、清水の寺から飛び降りる思いでした。自分でも、気が狂っているのではないか?と思いました。

 そしてキリストを信じた者は、聖霊が与えられます。聖霊の語りかけは、その人個人にあるので、それぞれがその導きに応答して、賜物を用い、互いに愛の行動を取ります。ここにおいて、他の人がどう思うのか?という恐れを抱いていると、御霊の火を消してしまいます。福音に生きるとは、言い換えれば恥を忍ぶのですから、人から見られて、自分にキリストが現れるのを見ていただく部分が大きいのです。キリストの中に生きているかどうか、人々に明らかにされるので、それが怖くて、前に一歩踏み出せない人が多いような気がします。

 僕は、アメリカにも生活を少しだけしたことがあり、若い時に経験したので、大きな影響を受けているのかな?と思います。第三の国にも宣教で長いこと住んでいました。それで、自分のことを初めから、「変な日本人」といって、「出る杭は打たれる」と言われるけれども、「出すぎた杭は放っておかれる」と言って、自分が自由にキリストに与えられた良心に従って動けるようにしたし、他の人々にも励ましています。

 ところが、JCFNという、海外から帰国するキリスト者の手助けをする団体がありますが、そこの小冊子には、「変な日本人」という言葉が使われているではないですか!私のオリジナルだと思っていましたが、なるほど、日本社会というのは、ほんの少しでも規格外だとはじかれてしまう圧を強く受けているのだなと思いました。

 Kyouさんは、アメリカは個人主義だというけれども、日本も歪んだかたちでの個人主義があると思います。僕は、東アジアの隣国である韓国や中国の兄弟姉妹にも触れた経験が多いから、それが分かります。彼らは集まるのが上手です。家族も大事にするし、仲間が集まることを好みます。教会も自ずと人数が増えます。

 ところが日本の人たちは、自分のことで忙しくて、その責任を果たす(?)ために集まろうとしません。けれども、淋しいのです。それで少人数の人たちだけで集まりますが、それでも、別個の人格が集まるわけですから、ぶつかることもあるし、だんだん、孤立していくのです。日本では恐ろしいことに、孤独を美とする書籍が売れていたりします。孤独(solitaryではなくlonliness)は、人を壊します、殺すことさえあります。

 こうやって私的な空間に閉じこもり、引きこもりやオタクっぽくなります。聖書の学びでさえが、時に、知識のみを求めていきます。しかし、神の知識とは「関係」の中にあり、兄弟愛や隣人愛の間にある知識であることが分からない人も出てきます。いろんな考え、性格、価値観のある人々とのやりとりの経験値が低いので、ちょっとしたことで傷ついたり、あるいは独善的になってしまうのです。

 しかし、他者のことを気にするということは、悪いことでは決してありません。Kyouさんも認めているように、短所でもありますが、長所でもあります。それは、自分が他者からどう思われるか?ではなく、ひたすら他者の益になることを考えているのです。それは、親が子を育てる時のような愛です。そしてこれが、神が独り子を世に下さった愛につながります。

 教会には、ご自身に与えられた賜物が必要な人々がたくさんいます。この人は、今週、どうだったのかな?あの人は?と気にしていき、その人のために祈っていき、励ましの言葉を与えたいと思い、時には行動に移して助けの手を差し伸べます。人を主にあって愛していくのに、もっとも適した場です。結果的に、自分が自分で最も居られる場です。

 そしてKyouさんが、自分が死ぬ時に、後悔のない人生を歩んでいるかどうかを考えると良いことをアドバイスしています。これ、大事ですね。キリスト教的に言うならば、私たちは一人一人、上に召してくださる神から賞を受け取るために、走っている存在です。私は若い時、信仰をもって間もない時、これを考えました。「福音を語った、ということであれば、後悔しないのでは?」と思いました。それが実は、福音宣教に従事することを決心した、献身のきっかけです。

 最後に、Kyouさんから学ぶのは、宣教相手を愛しているからこそ、言える言葉を持つことができる、ということですね。日本で宣教するのであれば、日本を愛し、日本人を愛しているか?ということです。そこから出てくる自然な思い、感情が、キリストにあって用いられて、それで福音を伝えられるのだと思います。上から目線では、正しいことを言っても、人の心をつかむことはできません。

後記:Kyouさんですが、こんな動画を先ほどアップしていました。自分の鬱の苦しみを語っていますが、ご自身がクリスチャンであること、信仰が支えになっていること、教会という共同体がいかに大切かを語ってくれています!


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