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現状維持の底力|津村記久子『ワーカーズ・ダイジェスト』

人生の中で、いつでもなく「今」読むべき本に邂逅することがある。

勝手に中身が変化することはない紙の本と
毎日目まぐるしく変化する自分の状況や状態。
両者がバチンと交差する時、「今」限定の読書体験を味わうことができる。

先日、久しぶりに津村記久子さんの「ワーカーズ・ダイジェスト」を再読したのだが、これがもう、今の私の心に全盛期の桧山進次郎バリのクリーンヒットをかっ飛ばしたのだった。

あらすじ:
奈加子は、大阪にあるデザイン事務所に勤務する傍ら、副業としてライティングの仕事を受けもっている。
重信は、東京でナカセガワ工務店という建設会社に勤務している。
12月のある日、奈加子は、社長の代理で出向いた打ち合わせで、大阪まで出張してきた重信と出会い、話をするうちに、2人とも翌月の4日に32歳になることを知る。別れた後も、2人はふとした折にお互いのことを思い出す。
Wikipediaより引用

あらすじだけ読むと、なんだか運命に導かれる恋愛小説のようだが、物語のほとんどは奈加子と重信の、それぞれのままならない日常が淡々と描かれている。

互いのことは「そういえばあんな人いたな」レベルの認識である。
最後の場面で少しだけ2人の人生が重なるのだが、別に関係性が発展することもなく、あたたかい空気だけを残して物語は終わる。

これまで何度も読んできたが、最後に読んだのが転職前なので20代中盤だった。
共感するところもありつつ、30代の2人の状況は、自分よりちょっぴり大人の日常、という感じで読んでいた。

しかし、何を隠そう、今の私も来月(2人とは1日違いの1月3日)、32歳になる大阪の会社員である。

たまたま手に取ったのがそんなタイミングで、なんだかようやく2人と同じ目線で生きられるような気がしたのだった。

ジーイストアインザム、エーアイストアウフアインザム
「彼女は孤独です」「彼も孤独です」

物語の序盤、重信が聞く語学講座のラジオから聞こえてくる例文である。
それはそんなにメジャーなことなのか。例文になるほど。孤独とは。と、重信は思う。

私も、20代の終わり頃から、これがアラサーのしんどさか、と実感することが増えた。

身体的な経年劣化はもちろんのこと、周囲の同年代の人たちの人生のフェーズが大きく分岐すること、年下の人間が増えてくること、漠然と全体的に「ついていけてない」感がすること…。

この小説に出てくる2人の毎日も、そんなしんどさや理不尽にまみれている。

だけど、津村さん特有の細やかで淡々とした日常描写は、たまらなく愛おしい。
それぞれの持ち場で頑張る2人の人間としての距離感も、実にええ塩梅だ。

特に、大阪のまちの描写には胸が躍る。
大阪駅のサンマルコのカレー、重信がEDの疑いを持って訪れる上本町の病院、中之島の川沿いの風景。自分の行動範囲や記憶とリンクする。

良くもないけど、悪くもない。
特に幸せではないけど、不幸でもない。


2人はそんなしんどさの中をなんとか潜り抜けて生きる。
決して派手に乗り越えたり希望ある未来を描いたりはしないが、それぞれが良い意味で中途半端ともいえる着地点を見出していくのだ。

物語終盤、年末の片付けをしながら「怒られたり、嫌われたり、怒ったり、嫌ったりすることが多かった」厄年を振り返りながら、奈加子は思う。

あとは少しずつ回復できればいいと思う。
それまでのレベルに達することができなくても、それを受け入れられるようにはなるだろう。
そしてその時その時のベストを尽くせるように、後悔のないように、心持ちを整えられるようになるだろう。
ワーカーズ・ダイジェストp.147

同じ時、重信も思う。

苦情を言われたり、おとなしくしているとどんどん仕事を押し付けられたり、何より毎朝の出勤が辛いけれど、でもそんなに悪くもないと思う。
好きなものが食えて、そこそこいい思い出もいくつかあって、三が日に会う予定の友達もいる。
そんなもの子供の時とほとんど変わらないじゃないか、と言われたらそうなのだが、それの何が悪いのだ。
ワーカーズ・ダイジェストp.153

どうにかこうにか現状維持しながら生きることは想像以上に難しく、そして尊いことである。

地味でも、ドラマチックな出来事が起きなくても、トイレで泣いてしまっても、向上できなくても、そこにある日常を粛々と維持する先にしか、未来はない。
そして、そうする中で蓄積された生活の地盤の奥底から、思いもよらない救いの芽が出る。

自己肯定感上げてこ!的押し付けではなく、友達が横で「ええやん、わたしら、頑張ってるやんな」と言ってくれるような、そんな優しさが津村さんの物語にはある。

32歳。来年も、きっと大丈夫。
そう祈るように、生きていこう。

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