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雑記2022 3/27

Twitterに呟くほどでもないことをここに書きためると決めて始めた雑記だけど、Twitterに呟くほどでもないことはここに書きためるほどのことでもないというところまで辿り着いたのが10日前。


思いついたらとりあえずやってみるのですぐに散らかる。調子が良いと自覚している時ほど多動になり、調子が乗らない時にその片付けに追われる我が人生をどうにかしたいものだが、そんなことをどうにかしようとすることだって実はどうでもいいことだ。


作家ぽっい書き方していると思われるのが嫌で、最近はデスマス調で書いていたこの文章だが、それも今日はどうでもいい。て言うか、その調子で書くとやたら「と思う」が増えるのだ。どういうことだ。作家っぽさを敬遠した結果、技の少なさを露呈するというアホらしさである。


書きためるほどのことでもない。ただ書きたいことを書くのに体裁もなにもあるものか。そこに労力を使うのがもったいないのじゃ、という現在の心境です。(どうでもいいんじゃなかったのか)


先日、一体いつ以来だろうというくらい選択自由の1日があり、私は絵を描くことを選んだのだけど、見積もりが甘く、1日では思うような形にはならなかった。一応、短時間で描けるものと思って、かなりハードルは下げて取りかかったはずだったのに、だ。これには、意気揚々臨んだだけにそこそこがっかりもしたのだが、なにしろ素人だ。見積もりが甘い。素人に何日で家が建つか見積もれるわけがないように。仕方なかんべ、ではあるものの。


文章についてはそれでもまだ見積もりが立つ方なのだが、絵はまだまだどうしようもない。なんにもわかっちゃいない。いつになったら量産できるのやら。成長したいなら意識したいのは質より量だ。今はね。



現時点で少しもうまくないのだからどうやったって質の方には限界がある。こんなもんかとしょぼくれれば道行は霞む。描くこと、描き倒すこと。量をこなせば自ずと見えてくるものがある。体技も書き物も同様。できれば程よい、ほんの少しの負荷をかけながらが良い。


本番が控えていること、締め切りがあること、仲間が待っていること。それがどれほど私を鍛えたか。心のではないガチの叫びを上げた夜も数知れず。あの頃は良かったとは少しも思わないが、あの頃のおかげで今がある。負担ではなかった。でも負荷はかかっていた。今のあれこれがいつか、あの頃のおかげになることはあるだろうか。


通っていたジムが移転した。私の自宅からは徒歩にして10分弱の距離、これまでよりも遠くなった。遠くなったことを面倒くさがるのは、運動したい者とはしてどうかとも思うが、やはり面倒くさい。というか、欲張りな私がゴリゴリに時間をやりくりしてなんとか続けていた習慣だ。10分はデカいのだ、現在の私には。1年半続けたので愛着もあるはずだが、しかしふらっと行ける環境も、習慣化に寄与していたのだなと改めて気づいた。


ちょうど今年中には習い事を始めたいと思っていた私だ。今の形は卒業されてはどうかという啓示なのかもしれない。


ただ習い事がなあ。いかんせん決め手に欠ける。これというご縁がまだない。でもいざという時のために、時間の余白は作っておいた方がいいだろう。



ホームページとプロフフィール用の写真を撮っていただいた。どうなるかな。楽しみ半分怖さ半分。4月中にはどうにかなる予定。





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