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『稽古』と雑記2022 3/12

2月に集まっていただき、3月にまとまった期間を設けた『稽古』も全日程を終え、1回目の区切りをつけました。集まってくださった方々に感謝感謝です。



学んだこと。



自分がやりたくて始めたことなので自分がやりやすいようにやるのが最優先。と何度も自分に言い聞かせていないと、うっかり「参加したいと思ってくださった方々がいる」ということに気を取られ、その勇気にお返しをしようとしてしまいそうになる、ということがありました。



私のそれが必ずしもお相手のお返しされたいイメージと一致するとは限らないのに。もっと頭を通してから、それでもお返しする方法がまだあるなら、それをすればいい。それまでは、こちらの勝手にやらせていただく。なにしろ私がやりたくて始めたことなのだから。そもそもお返しされたいと思ってすらいないかもしれない。


それは気遣いのようで、実はこの時間を無駄だと思われたくないという防御の型だったのかもしれません。自分ではこんな無駄なことをと言いながら。


私の稽古したい欲も少しは満たされたわけですし、何かトラブルが起きるようなこともなく、1回目の試みとしては大成功と言っていいはずです。




でも、もっと自由に『稽古』できるのではないか。そして、ひっそりとやっているからこそ得られる自由さと、ひっそりとやっているからこそ覚える寂しさと、どう折り合いをつけ、自分やこの企画がどうなっていけばさらに満たされるのか。自問を続けなければなりません。


一息ついたところで2月11日に投稿した『稽古』初日2022 2/10の備忘録を読み返すと沁みるものがありました。あれも更新しないと。


いやあしかし、一度区切りをつけたことで少し落ち着きました。やはりどこかで自分にプレッシャーをかけていたのでしょう。うまくいかせようとか、無事に終わらせようとか。いいことをしたと思いたいとか。そういうところから解放されるためにも『稽古』は継続したいと思います。私のために。


落ち着いたので、日々のことも整理します。


踊り場の片付けは全く着手できず。明日やりたいと思うものの、明日は子どもと遊んで終わってしまいそうな気もします。家族の時間も大切な時間です。


子どもの靴を新調する予定です。踵が小さく足首も細い人だったので、靴選びが重要だったのですが、この頃は骨格がしっかりしてきて、ずいぶんほっぽっていられるようになりました。体幹もゆっくり時間をかけて私と一緒に強くしていきたいところです。体幹は手足に通じ、手足は勉強や運動に通じるのではと考えます。


自分は、体幹はかなり強いと言われるものの、それと足を連動させたときの、腹、尻、大腿、ハムの使い方に左右差があり、苦手な動きになると一気に不自由になるという傾向があります。この辺が素人の家トレだけでは解消しきれません。


そこで身体のことについて習い事を始めたいのですが、どこから始めるか未だに迷っています。迷うくらいならやってみて、違えばすぐに撤退すればよろしいのですが。おそらく自分への効果だけでなく、学んだことを俳優や演出家として活用していきたいという欲が邪魔しているのだと思います。効率というか、元を取るというか。私の、少し先を想像しすぎるところはよくない性質。その想像はもはや妄想です。まずは目の前のこと、手の届くところから。時間の無さに焦りますが、迷っている時間こそが時間を消耗しているとも言えます。


スマホを買い替えなければならない時が来た。ような気がしています。


免許の更新に行けるのか。行かないという選択肢はないのだろうけど、確実に行けるという自信もない現在の心境です。


HP開設の動きは順調。サーバーの確保という大元の準備がまだ終わってないのですが。ついでに月々支払っているものも今月中に整理する予定です。


そうだ、断捨離も止まっていた。再開しなければ。すべては踊り場に通ず。


『稽古』とはまた違う形で「人に会えないか」と考えています。やりたいことをやるために、人から学ぶことにもっともっと注力したいのです。仲間、プロ、達人。私は今、とにかく自分の中の見飽きた部分を更新したいようです。それはこの数年考えていたことですが、やっと実行出来るイメージがついてきました。


それは人脈を作るというような現実的なものではありません。もっと曖昧な出会いであり、繋がりです。


「それでも人は一人だよ。宇宙でたった一人だよ」
「僕はただ、わけが欲しかっただけなんです。今日を生きるわけが」
「一人のまま、寂しさを抱えたまま、それでも誰かと繋がっていられる強い力を」
「それでもあなたは投げるだろう。人知れず。力の限りに投げるだろう。曖昧なフォームで、複雑な真っ直ぐを」



私はことあるごとに自分の脚色の中に孤独に関する言葉を忍ばせています。主人公自身が放つ場合も、主人公が投げかけられる場合もあります。私が共感する登場人物は、孤独を愛し孤独を受け入れながら、同時に繋がることを諦めない人たちのようです。自分の矛盾を小さく笑いながら。






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